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 神様は物心ついた時から町の守り神でした。神様が住んでいる町はいわゆる発展途上の工業都市で、毎日毎日行きかう人の声と舞い上がる埃でなんともやかましい場所でした。

 

 神様の使命は自分の生まれた町を見守り、動向を上に報告することです。そうすることで、より上位の神々は人間世界の実態を把握し、バランスをうまく保っているのでした。いわば神様は使いっ走りの下っ端です。まだ神様としては生まれたばかりのひよっこなのですから、まあ文句は言えないでしょう。神様自身も、その境遇に何ら疑問を抱いてはいませんでした。

 

 神々はそれぞれの管轄がきちんと決まっており、基本的にお互い交流したりしません。極々たまに、日傘を携えた奔放な花の女神や放浪癖のある風の神が気まぐれに遊びに来るくらいです。

 

 神様は恋人の定番待ち合わせスポットである噴水のふちに座り、あくせく働く老若男女を日がな一日眺めながら空の雲を数えるのが日課でした。我ながらつまらないことをやっている自覚はあるのですが、何しろ他にすることがないのです。人間には神様が見えないのですから誰ともお喋りしようがありませんし、面白そうな興行が行われると聞いても、ひとねむりしている間に十年二十年経っていることなどザラでした。強いて言えば犬には懐かれるのですが、神様は吠える犬が苦手だったのでありがた迷惑以外の何者でもありません。

 

 神様はすっかり日々を流すことを覚え、泣き、笑い、怒る人間達をぼんやり眺めては、どうしてあんな風に身を削るようにして生きられるんだろうと考えるようになりました。そんなだから、人間は数十年ぽっちで死んでしまうのだと。

 

 

 

 急激に寒くなったある日のことでした。

 聞くに堪えない愛の言葉を囁きながらお互いをあたため合うカップル達に挟まれて、例によって噴水のへりに腰かけたまま空を見上げていた神様は、ふとあることに気が付きました。

 

 5歳か6歳くらいの(と神様は思いましたが、人間の年齢に疎かったので自信はありませんでした)茶髪の少年がこちらに向かって真っ直ぐ走ってくるではありませんか。それでも神様は別段驚きませんでした。そのあたりのやんちゃ坊主が鬼ごっこでもしているのか、もしくは度胸試しに噴水に飛び込もうとしているのだと考えたのです。ところが少年は神様の目の前で急ブレーキをかけると、明らかに神様の顔を覗き込んでまじまじと眺めました。

 

「ねえきみ、何でいっつもここにいるの? かぜひくよ」

 

 神様は反射的に後ろを振り向きました。自分の後ろに誰かがいるのかと思ったのですが、背後では清らかな水がさらさらと音を立てて噴き出しているだけです。神様は目をパチクリさせ、「……君は僕が見えるのか?」と尋ねました。未だかつて自分に話しかけてきた人間などいませんでした。

 

「うん。みえるよ。なんで?」

「……驚いた。声も聞こえるんだな」

「うん。きこえるよ。なんで?」

 

 神様は零れ落ちそうな大きな目を輝かせている少年を連れて噴水を離れ、茂みの方に向かいました。少年は一向気にしないようでしたが、ひしめくカップル達からの怪訝な視線をビシビシと感じていたからです。

 神様は少年と目線を合わせ、自分がこの町を見守る神様であること、少年が生まれるずっとずっと前からあの噴水にいること、普通の人間には自分の姿は見えないことを教えました。

 

「かみさまなの!? すっげー! そらとんだりへんしんしたりできる!?」

「残念だけど、僕にはそこまでの力はないんだ。僕はこの町の発展を見守るだけ。唯一操れるといったら水くらいかな」

「なーんだ、つまんない」

「つ、つまんな………」

 

 少年の無邪気な物言いに思いのほかグサッときた神様でしたが、すぐに気を取り直しました。長年一人で退屈に耐え忍んできたメンタルは伊達ではないのです。

 

「かみさまのなまえ、なんていうの?」

「名前は……ないよ」

 

 少年は首を傾げました。神様にとっては名前なんか必要なかったのです。上位の神々にとって神様は取るに足らない存在でしたし、唯一の友人達といえる花の女神や風の神も、神様のことを「ボーヤ」呼ばわりするだけでした。

「でも、これからはなまえがいるだろ」

「どうして?」

「オレがよびたいもん」

 神様は不思議な色の瞳を瞬かせました。何もかもが初めてで、どう答えればいいのか分からなかったのです。人間と話すことも、仮にも神様に対してそんな図々しいお願いをされたことも。戸惑っているうちに、神様は思わず「分かった」と返事してしまいました。

 

「オレがなまえ、つけてあげる。何がいいかなあ。セバスチャン? フレデリック?」

「イヤだ」

「じゃあぽん吉」

「君……結構センスないな」

「じょーだんだって! じゃあ『ミクリオ』ってよぶね」

「ミクリオ? どういう意味だい?」

「オレのすきなほんの中に出てくる、きれいなめがみさまのなまえなんだ!」

 

 神様は口の中で「ミクリオ」と転がしてみました。ミクリオ。ミクリオ。何で男の自分にわざわざ女神の名前をつけるのかよく分かりませんでしたが、それでも少年のつけた名前は何だか舌にしっくり馴染み、心地良く響きました。ミクリオ。悪くないかもしれない。

 神様が頷くと、少年は勢いよく右手を差し出しました。

「オレはスレイ。よろしく、ミクリオ!」

 

 

 

 スレイと名乗った少年は大通り沿いにある花屋の一人息子でした。

 母一人子一人で細々と営んでいる店ですがなかなかに評判がよいようで、祭日には長蛇の列ができることもあります。母子が丁寧に丁寧に花を育てていることは、神様から見てもよく分かりました。他の花屋の店先に並んでいるものとは瑞々しさが違いましたし、花束を抱えていく人達の幸せそうな顔といったら、神様が知らず知らずのうちに微笑んでしまうほどでした。

 

 スレイは度々花を持って噴水を訪れるようになりました。売れ残りを拝借してきたらしいその色とりどりの花々を「ミクリオににあうよ」と髪やら服やらにつけるのがスレイの挨拶がわりでした。

 飾りつける度にスレイはやたらと褒めそやすのですが、スレイの飾り方はめちゃくちゃでしたし、神様は男ですから褒められても手放しで喜べません。結果的に頭からつま先まで花まみれにされてしまうこともしょっちゅうでしたが、スレイの心底嬉しそうな顔を見ると何も言えなくなってしまうのでした。

 

 そんな神様にも悩みの種がありました。スレイが遊びに来てくれることはありがたいのだけれども、他の人間から見れば何もない空間に話しかけているようなものです。スレイが変に思われて爪弾きにされたりしないよう、人気のない場所で待ち合わせようと提案したこともあったのですが、スレイは頑として断りました。

 

「ミクリオと噴水で待ち合わせしないと意味ないんだ!」

「なぜだい? 他の場所でもいいだろ」

「だってここは………」

 

 そこから先はいつもスレイが視線を逸らし、もじもじと口ごもって終わるのが常でした。

 どうしてわざわざ噴水にこだわるのか神様にはさっぱり訳が分かりません。噴水なんか、若い恋人達が逢瀬の場所に使っているだけじゃないか。そう何度もくどくどくどくど諭したり宥めたりすかしたりしたのですが、スレイは決して首を縦に振ろうとはしませんでした。スレイの意外な強情さに呆れ果てながらも、神様はスレイの望むことならできる限り何でも叶えてやりたいと思いました。

 

 「相手の望みを叶えてやりたい」と考えたのは神様だけではありません。

 一度でいいからお菓子を作ってみたいという神様の要望に応えて、スレイが家の台所を貸してくれることもありました。胸が躍る反面、神様は母親に怪しまれないかと気が気でなかったのですが、蛙の子は蛙とでも申しましょうか、母親は息子の奇行に寛容な女性でした。

 

 それどころか「神様が来ている」と聞くと、神様とすら仲良くなる息子の人懐っこさを褒め、神様に椅子とお茶を勧め(母親が差し出したのは見当違いの方向でしたが、神様は大人しくそこに座ってお茶をいただきました)、「神様が我が家の台所を使ってくださるなんて、将来安泰、商売繁盛かもね」と豪快に笑いました。神様はこの変わり者の母子がますます好きになりました。

 

 幸い神様はお菓子作りに向いていたようで、バニラソフトクリームだのマンゴーソルベだの苺のショートケーキだのをせっせと作っては母子を喜ばせました。神様なんて商売はやめて菓子職人にでも鞍替えしようかと本気で思ったほどです。

 

 砂糖の手に入りづらいご時世でしたから、神様はふたりに迷惑をかけないよう作ったお菓子を花屋のカウンターで売ってもらうこともありました。材料費くらいは自分で調達しようという魂胆だったのですが、神様のお菓子が並んだ日はご近所さんが我も我もと花屋に殺到した上、母親の巧みなセールストークに乗せられてお菓子と花をセットで買っていくので、黒字になることもしばしばでした。

 

 自分にこんな才能があったなんて、何事も挑戦してみないと分からないものだなあ。

 

 新たに発掘された己の一面をしみじみ噛みしめつつ、日を追うごとにレパートリーを増やしていく神様に、スレイはぽろっと「オレが花屋を継いだら、カフェを併設してミクリオのお菓子を出そうよ」と漏らしました。

 

 神様と人間が店を営むなんて前代未聞でしたが、こじんまりとした店内で町の人々がお手製ケーキを味わう様を想像すると、何だかうっとりしました。人々は甘いお菓子に舌鼓を打ちながら、大切な人と笑いさざめいているのです。そしてお皿と白いテーブルの上には、スレイ自慢の美しい花々がふたりを祝福するかのようにたおやかに咲き誇るのです。長い長い間考えるのをやめていた神様には、先のことを想像するというだけで新鮮でした。

 

 スレイが「忘れるなよ」とうっとりしている神様をつつくと、神様はようやく我に返りました。

「忘れないよ」

 

 

 スレイと出会ってからというもの、神様は以前よりはるかに注意深くなりました。呑気に昼寝でもしようものならスレイが白髪のおじいさんになっているかもしれないと思うと、おちおち気を抜いてもいられないからです。

 

 人間の成長は早いもので、スレイはあっという間に神様の身長を追い越していきました。昔は自分の方が目線を合わせていたのに、今となっては自分が目線を合わせられる側です。そのことに神様はやや不服でしたが、幼かったスレイが声変わりし、驚くほど逞しくなっていくのを目の当たりにする度、自分でも説明のつかない感動にうち震えました。人間はこんな風に変わっていくのかと。

 

 そうしてスレイの変化をひとつたりとも見逃すまいとしているうちに、今まで見過ごしていたものが見えるようになってきました。八百屋の夫婦に玉のような可愛らしい子どもが生まれたこと。修業と研鑽を重ねてようやく師匠から免許皆伝を受けた鍛冶屋の若い弟子の、晴れやかな表情。季節が巡り、木の芽が芽吹くことのとてつもなく美しいこと。

 

 神様は、だんだん町の人間達一人一人が愛おしくなっていきました。そして、かつて日々をなんとなく過ごしていたつまらない自分を恥じました。今までは単純に「ここで生まれたから」という理由でこの町を見守っていましたが、自分がこの町の神であることに、何かしら意味があるように思えました。

 

 

 

 母親が亡くなり、スレイが実家の花屋を継いだちょうどその頃、遠くの町で戦争が起こりました。戦火はみるみるうちに広がり、周辺の国々を巻き込んで大きなうねりとなっていきました。既に名のある都市として発展していた神様の町がそのうねりに巻き込まれるのも、もう時間の問題でした。

 

 神様はひどく胸を痛めました。神々の考え方からすれば、戦争もひとつの必要悪です。数の増えすぎた生物が天災や飢饉によってその数を減らすように、個体数を調整するための仕組みの一環だと、その程度にしか考えていないのでした。

 

 以前の神様であれば、その考えに従って粛々と上に町の現状を報告したかもしれません。いつも座っている噴水が壊れることを多少残念に思ったとしても、逃げ惑う人々の涙にまで想いを馳せなかったに違いありません。知ってしまったからには、もう見て見ぬふりなどできませんでした。それでも、神様には人間を助けることなど許されていません。神様の使命はあくまで見守ることだけ。人間達の命に干渉することは、最大のご法度なのです。

 

 神様は自分にできるせめてもの行いとして、スレイに早く町を出るよう忠告しました。これまで何十年何百年とこの町を見てきて、町に危機が迫ったことは幾度となくありましたが、今回の戦争は度を超していました。巻き込まれればタダでは済まないことは明白です。

 

「ミクリオはどうするの?」

「僕はこの町から離れられないんだ」

「じゃあオレも残るよ」

「何でだよ。僕は誰にも見えないんだから、戦争に巻き込まれたところで痛くも痒くもない。でも君は違うだろ。危なすぎる」

「オレだってこの町が好きだから、故郷を守りたいよ。それに、ミクリオのいるところがオレの帰る場所だ」

「スレイの分からず屋!」

「ミクリオの頑固者!」

 

 この日、ふたりは初めて喧嘩別れをしました。神様は穴があったら飛び込みたいほど盛大に落ち込みましたが、落ち込みながらも「これでよかったんだ」と繰り返し自分に言い聞かせました。3日後、恐る恐るスレイの花屋に顔を出しましたが、店内はがらんとしていて鼠一匹いませんでした。挨拶もなしに出て行ったところを見ると相当腹に据えかねたのでしょうが、スレイが争いに巻き込まれるよりはずっとましです。

 これでいい。これで。

 神様はほっと胸を撫で下ろして、町中を伝うピリピリした緊張感に再び身を固くしました。

 

 それから1週間も経たないうちに、とうとうこの町で戦いの火蓋が切って落とされました。領主の派遣してきた傭兵達と侵攻してきた国の兵士達が真っ向からぶつかり、大通りには血の臭いと死臭が漂いました。あれほど平和だった町にはあちこちから火の手が上がり、町の人々は恐怖に慄きながら嗚咽まじりに神の名を呼びました。

 神というものがこの世に存在するのなら、どうか、どうか罪深き私どもをお救いください。

 

 神様はうち砕かれた噴水のそばで、ほとんど息が止まりそうになりながら町と人々の生活が壊されていくのを見つめていました。

 鍛冶屋の弟子の夢だった工房は無残に壊されて跡形もなくなっていましたし、8日後に婚礼を控えていた若いカップルは引き離されて生き別れになりました。足腰の立たなくなった老婦人の杖がわりとなって活発に動いていた従順な飼い犬は、哀れな骸を晒しています。神様は眩暈がして、その場にうずくまりました。そのまま倒れることができたらどれほどよかったでしょう。しかし、蹂躙される町から目を背けることがどうしてもできませんでした。

 ふと、忘れるはずのない背中が大通りを横切っていきました。

 

「スレイ!?」

 

 口を酸っぱくして逃げろと言ったにも関わらず、スレイは町に残っていたのでした。スレイの真っ直ぐ駆けていく先は今にも焼け落ちようとしている家屋で、中からかすかに子どもの泣き叫ぶ声が聞こえます。八百屋夫婦の幼い娘が、燃え盛る建物の中に取り残されているのです。

 

 神様はすっと肝が冷えました。悪魔が舌なめずりをしているように燃え上がる炎は、収まる気配を全く見せません。このままでは、スレイも娘も火に巻かれて二人ともまとめてお陀仏でしょう。たとえ無事に建物から逃げおおせたとしても、早晩敵国の兵士に見つかってあっさり殺されてしまうかもしれません。

 

 どうして何もしてあげられないんだ。今までスレイは数えきれないほどのものをくれたのに、どうして何も返せないんだ。

 何のための神だ。何のための。

 

 神様は我知らず、その場から立ち上がっていました。

「どこへ行くつもり?」

 花の女神がスカートをなびかせながらふわりと隣に降り立ちました。

「まさかアナタ、あの子達を助けるつもりじゃないでしょうね」

 神様は何も答えません。女神はそう気の長い方ではなかったので無言に焦れ、神様の肩をはっしと掴みました。

 

「知ってるでしょ。掟を破ろうものなら、どうなるか分からないわよ」

 

 神様にとって、そんなことは百も千も承知でした。禁忌を破った神が一体どういう末路をたどるのか、神様は知りません。しかし、上位の神々が規範意識の欠ける下っ端の神に情け容赦などしないだろうということは容易に想像がつきました。それでも……それでも、神様はかたく拳を握り、血と炎とで真っ赤に塗り替えられていく町を見据えました。

「君に伝言を頼みたい」

 女神は、一瞬目を閉じました。

「……手短にお願いするわ。アナタに付き合ってられるほど暇じゃないの」

 女神は神様から二言三言受け取ると、肩を掴んでいた手をゆっくりとはなしました。彼女には彼を止める気などもはやありませんでした。どんな結果になろうと、それが彼の決めたことなら納得のいくまでやればいい。どうかこの子が後悔しませんように。それが、スレイと出会ってからというもの、日に日に表情が増えていく神様を内心眩しく思っていた彼女のただひとつの願いでした。

 

 

 

 雲ひとつなかった空に徐々に厚い雲が垂れ込め、真っ昼間だというのに町全体に影が差しこみます。

 急激な天候の変化に人々が戸惑っているうちに、真っ黒な雲の絨毯からぽつぽつと雨が降りはじめ、次第に勢いを増して降りそそぎました。土砂降りなどという生易しいものではありません。あまりにも激しい滝のような雨で、方々で猛威を振るっていた炎は少しずつ小さくなり、じゅうじゅうと音を立てながらちぢこまり、最後にはふっと消えました。

 

 自国の兵も敵国の兵も、視界が煙るほどの大粒の雨に驚き、ぽかんと空を見上げます。雨はやけにあたたかく、ある者は何かの祟りではないかと怯え、ある者は戦地に赴く前に恋人と過ごした雨の夜を思い出し、またある者はまるで誰かが泣いているようだと思いました。雨は、鎧に染みついた返り血も兵士達の戦意も、綺麗さっぱり押し流してしまったのです。

 

 両軍の兵士はどちらからともなく武器をおろし、喚き散らす司令官を尻目にぞろぞろと列をなしながら自分達の陣営に引き上げました。

 本当に摩訶不思議なことですが、兵士達の脳裏に浮かんでいたのは戦略でも敵国への殺意でも命乞いの言葉でもなく、涙をこらえて自分達を送り出してくれた家族と、どんな時でも心の支えになってくれた、ほのかに灯りのともる我が家でした。

 

 帰ろう。故郷へ。

 愛する者のいる故郷へ。

 

 この町にだけ訪れた雨は丸一日降り続き、翌朝には嘘のようにからりと上がりました。

 めいめい逃げたり隠れたりしていた町民達は、まだ夢のさなかにいるような心持ちで建物の残骸からそっと這い出てきました。スレイも八百屋の娘も、あちこち火傷はしていたものの五体満足で、自分達が何事もなく生きていることが信じられませんでした。

 幼い娘は焼け焦げたぬいぐるみを抱き締めながら、ぽつりと「神様だ」と呟きました。

 

「神様は本当にいたんだ」

 

 涙ぐみながら天を仰ぐ人々の間をかき分けて幼い娘を八百屋夫婦のもとに送り届けると、スレイはその足で町を駆け回りました。神様が人の生死に干渉できないということは、スレイもよく知っていました。母親が亡くなった時、神様が心から申し訳なさそうにそう言っていたからです。

 

 神様がその禁を犯してしまった今現在どんなことになっているのか、スレイには皆目見当がつきません。しかし、抑えきれない胸騒ぎがスレイを急かしていました。昔から恐ろしく勘は良かったのです。いつもたった一人で、いかにもこの世に飽きましたと言わんばかりに空を眺めていた神様を見つけるほどに。

 

 大通りはほとんど川のようになっていましたから、履いているズボンはびしょ濡れになりましたし、靴の中にも水が入ってぼちゃぼちゃと耳障りな音を立てました。それでも構わず、スレイは神様の名を大声で呼びながら町を隅から隅まで捜しましたが、神様はどこにも見当たりませんでした。

 

 ボロボロに壊された噴水までたどり着いた時、スレイははっと息を呑みました。噴水の一部に惚れ惚れするほど澄んだ水がたまり、その底に、神様がいつも大事に身につけていたサークレットが沈んでいたのです。膝から崩れ落ちたスレイに、屋根の上から誰かが声を掛けました。

「アナタがスレイね」

 金色の髪をした見慣れない少女が、場違いなほど優雅な仕草で脚を組んでいます。

「……君は?」

「誰だっていいでしょ。後始末をしなきゃいけないの。そこをどきなさい」

「ダメだ。こいつはオレの――」

 しかし、いかにスレイが立ちはだかろうと相手は女神です。彼女が屋根からすとんと飛び降りると、ボコボコと地面が隆起し、あっけなくスレイを吹き飛ばしました。

「誤解しないでちょうだい。ワタシは耄碌した上の連中とは違うのよ」

 花の女神が傘を一振りすると噴水の水たまりがキラキラと輝き、虹とともに、その中にぷっくりと何かが生まれました。神様の瞳の色にそっくりな紫色の小さな花。控えめで可憐で、それでも凛と上を向くその花は、どことなく神様に似ていました。

 

「ワタシ達は自然の中から生まれるわ。アナタが丹精込めて育てれば、いつかまた会えるかもね」

 

 花の女神は言いながら、なんて残酷な仕打ちをしたのだろうと思いました。彼の生きているほんのわずかな時間にまた同胞が生まれるとは限らないし、仮に命を授かったとしても、前の彼と同一人物ではないかもしれないのですから。

 

 それでも目の前の青年の吸い込まれるような翠の眼を見ていると、小さな小さな可能性を信じてみたくなるような、そんな気持ちになったのです。

 人間が神様を信じることはあっても、神様が人間を信じるなんて世も末ね。ワタシもこの二人に感化されちゃったのかしら。

 女神は心の中で呟き、川の中で尻もちをついたまま目を見張るスレイを置き去りにしようしましたが、「ああ、そうそう。あの子から伝言よ」と振り返りました。

 

「『名前をくれてありがとう』。確かに伝えたわ」

 

 そう口にすると、女神は今度こそ振り向きもせず、空気に溶けるように消えていきました。

 

 

 

 戦火に巻き込まれた日から数十年。戦争の爪痕が深く刻まれていたにも関わらず、町は近隣都市が驚くようなスピードで復興していきました。職人気質の町人が多かったので何くそという気持ちが強かったのかもしれませんし、「神様が見守っていてくださる」という想いが町民をひとつにしたのかもしれません。

 

 もちろん、その中にはスレイの姿もありました。年がら年中トンカントンカン建物を建てる音が響き渡るこの町で、スレイは相も変わらず花屋を営んでいました。スレイの育てる花は繊細でつややかでおまけに庶民価格だったので口コミの評判も上々でしたが、初めて店を訪れる客が必ず首を傾げることが2つありました。

 

 ひとつは、店のカウンターに小さな紫色の花が置かれていること。そして2つ目は、花屋であるのにも関わらず、1階にいくつもテーブル席が設えられていることでした。

 常連以外は興味津々で店主に尋ねます。どうしてこんな雑草を後生大事に育てているのかと。

 その度に店主は答えました。雑草なんかじゃないよ。オレの初恋の人なんだ。

 

 その答えを聞いた人々は分かったような分からないような顔をして頷くと、「あの店主もずいぶんロマンチストだな。好きだった女を花に重ねて大切に育ててるなんて」「俺のカミさんにももちっと可愛げがあればそれくらいしてやるのによぉ」なんて口々に言いながら、テーブルの並んだ空間で思う存分お喋りをして帰るのでした。

 

 

 

 

 しんしんと雪の降る、どこまでも静かな夜でした。橙色の街灯がぽつぽつと灯り、あちらこちらの家で子ども達のはしゃぐ声が通りにまで漏れ聞こえています。

 

 この日は花屋も朝から晩までてんてこまいの忙しさでした。誰も彼もがプレゼントと小さな花束を片手に家路を急ぐ日。今頃、どの家庭でもあたたかなご馳走と飾りつけたモミの木を前に感謝の祈りを捧げていることでしょう。

 

 店主は一年の中でこの日が一番好きでした。自分であれ恋人であれ姉弟であれ両親であれ妻子であれはたまた仇であれ、花は誰かのために買うものなのですから、花屋冥利に尽きるというものです。店主自身が花をプレゼントしたのはもうずっとずっと前でしたが、その時の満ち足りた気持ちは今でもありありと思い出せるのでした。

 客足もようやく途切れ、店主がそろそろ店じまいをしようかと片づけ始めた時、誰かがドアをノックしました。

 

 こんな時間にお客さんだなんて、珍しいな。

 

 店主は首を捻りつつ、ドアノブに手を掛けました。どこかのドジな親父さんが愛する奥さんへのプレゼントを忘れて、慌てて買いに来たのでしょうか。それともありあまる金で今から豪勢な花束を作れなどと、成金が無茶な注文をしに来たのでしょうか。

 

「すみません、もう今日はおしまいで……」

 

 店主がドアを半分ほど開けた状態で固まったのは、見事に積もった雪の白さに目が眩んだせいではありませんでした。

 毎年紫の花が咲いては枯れ、咲いては枯れする度に、店主は幾度となく希望をうち砕かれてきました。その都度、何度もなつかしい神様を思い描きながら心をこめて世話をしていたのです。ですから、決して忘れるはずがありません。神様の顔も形も表情も声も、何もかも。

 

 幻でしょうか。何度も夢にまで見たせいで、現実とそうでないものがごっちゃになってしまったのでしょうか。いいえ。夢まぼろしなどではないと、外から吹き込んでくる風の冷たさが店主に教えてくれていました。

 

 どんなに待ったことか。

 どんなに、どんなにこの日を待ちわびたことか。

 

 

 どこからともなく、子ども達の歌う讃美歌と鐘の音が聞こえてきます。

 細く長いその旋律は、雪と、散らばる宝石のような家々の明かりにぼんやり照らされた夜空へすうっと溶けて、消えていきました。

 そう。こんな日は、神々が大いなる気まぐれを起こしたとしても、ちっとも不思議じゃないのです。
 

だって、今日は奇跡の起こる日。聖夜なのですから。

 

 

end

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