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「娼館?」

「ええ」

 

 「知る人ぞ知る」という形容がぴったりなこじんまりとした酒場のカウンターで、バーテンダーがグラスを拭きながら淀みなく話す。店内には2、3人。日付の変わる時刻にしては客入りが少ない。そのせいか、若いバーテンダーの口調は接客をしているというより暇潰しのための完全な世間話だ。

「最近出来たんですけどね、噂じゃ天族の美女を攫ってきて特別なVIP相手に奉仕させてるって話なんですよ。まあ、あくまで噂なんですけど。天族とのセックスってどんなんなんでしょうね。全く金持ちは羨ましいというかなんというか」

「へー。天族の女をね」

 カウンター越しに相槌を打っていた客の台詞を聞いて、バーテンダーはあからさまに「しまった」という顔をした。

「あ、いや、お客さんも天族の方ですよね? 不愉快なお話を聞かせてしまってすみません」

 多くの人間が天族を視認できるようになってきたとはいえ、まだまだ彼らの存在は特別だ。ついうっかり天族の人権(というのかは不明だが)を傷つける発言をしたことに気づいたバーテンダーが慌てふためきながら手を顔の前で振る。

「いやいや。気にすんなって」

 ちょうど空になったジョッキをトンとカウンターに置き、ザビーダは髪をかき上げた。ほの暗い店内で、テーブルに据えつけられたランプの明かりがその横顔をぼんやり照らし出す。

「俺様もあやかりてえわー。どこにあんの、それ?」

 

 

 

 なーんで俺、わざわざこんなことしてんのかね。

 ザビーダは木の上から件の娼館を油断なく見下ろしていた。館は街の大通りを抜けたはるか先にあり、朱塗りの屋根と漆黒の柱が印象的な建物にぽつぽつと明かりが灯る様は、娼館というよりお貴族様の邸宅のようだ。

 

 おそらく一般庶民向けではなく、富豪の好みに合いそうな容姿端麗かつ床上手かつ才気と教養にあふれた高級娼婦を集めているのだろう。社会的地位の高い連中がそんじょそこらの店で欲望の赴くままにほいほい女漁りをする訳にはいかない。口も頭も中身も軽い女にぺらぺら吹聴されて大スキャンダルに繋がったりしたら困るからだ。ザビーダに言わせれば、欲求を発散するのにもいちいち取り繕わなきゃならないなんて人間のお偉方は大変だねえ、てなもんだが。

 

 何の理由もない人助けはザビーダの趣味ではないし、噂レベルの話を鵜呑みにする訳にはいかない。鬼が出るか蛇が出るかと身構えて飛び込んだら正体はミミズだった、なんてことも少なくないのだ。だが、聞いてしまった以上調べずに放っておくのは寝覚めが悪い。

 

 まあいいか。最近ぶらぶら飲み歩くだけだったし、運動にはちょうどいいだろ。助け出した美女に感謝されてキスのひとつでも貰えれば万々歳。もしバーテンダーの言う事が本当に根も葉もない噂だったらその時はその時で、グラマラスなお姉さんに一晩お相手いただければいいだけの話だ。

 

 それにしても。

 

 ザビーダはすっと目を眇めた。富裕層が利用するということを差し引いても、ただの娼館にしては警備が厳重すぎる。おまけに警備担当の多くが歴戦の傭兵を思わせる身のこなしだ。「女性天族を攫っている」という話がまるきり事実でないとしても、後ろ暗いところがあるのはまず間違いないだろう。

 

 ザビーダはたっぷり時間をかけて、警備担当の巡回ルートと入り口の位置を頭に叩き込んだ。その気になれば全員なぎ倒して真正面から堂々と入ることもできるが、下手に騒ぎを起こしてお尋ね者になったりするのだけは避けたい。まだこの街で口にしていない銘酒がいくつもあるのだ。

 

 風を操って鍵のかかった裏口を開け、音も立てずに館に入ると、だだっ広いホールの端に出た。真っ赤な絨毯を敷き詰めたホールには数人の黒服があちこち待機しており、玄関から鷹揚に入ってくる身なりのいい男達を一礼して出迎えている。

 黒服達の死角に潜んで様子を窺っていると、客を選り分けて案内していることが分かった。辺りを見回している一見らしい客は手前の部屋に、顔パスレベルの常連は奥の部屋に。

「これはこれは旦那様。お待ちしておりました」

 常連客らしいでっぷり肥え太った男が外套を脱いで、黒服に渡している。

「何度も通った甲斐があったよ。いよいよ天族を抱けるんだろう」

「旦那様。その話はここではなんですから、奥で」

 黒服が男に何事か耳打ちするのを、ザビーダは注意深く観察した。どうやら噂は本当らしい。

 

 アリーシャの生前の働きにより、天族と人間が共存するにあたって、天族の権利を保護する法体制が一部敷かれている。人間と距離を置いて生きてきた天族達の力が、見えるようになったことで悪用されるのを防ぐためのものだ。信仰心のほとんどない人間にとって、天族の操る強大な力はさぞ魅力的な道具だろう。そんなのは千年以上前に既に証明されている。恨み骨髄で、霊能力の高い人間が増えている現状をありがた迷惑だと感じている天族もまだまだ多い。

 

 意思疎通ができるようになったからといって、異種族同士がいきなり仲良しこよしなんてどだい無理な話だ。理想を実現するためには途方もない時間と、段階と、いくつかの荒療治と、根気強い根回しがいる。法律は、スレイの志を知っているアリーシャが必死で作り上げた苦肉の策のひとつだ。己の利益のために不当に天族を拘束することは、それだけで罪のはず。

まあ、いつの時代でもくだらねえこと考える奴はいるもんだよな。

 

 ザビーダは音も立てずに男と黒服が消えた扉の中に滑り込み、天井の梁のあたりに身を隠した。

 男と黒服はザビーダが尾けてきていることには気づきもせず、最近の政治だの経済だのといった世間話に興じながら廊下を歩いていく。黒服が奥にある重厚なマホガニーの扉の前に立つと、取っ手を引き、恭しく男を招き入れた。

「お待たせいたしました。どうぞご覧ください」

 ザビーダの位置から部屋の様子はよく見えない。風で室内の様子を探ると、3人の気配がする。男と、黒服と、誰か。二人の言い草から察するに残りの一人は天族だろうが。

 ザビーダは密かに眉を跳ね上げた。この気配には覚えがある。俺の知ってる奴じゃねえだろうな。

 

 男と黒服が入っていったのはまるで王族の寝室のように広々とした豪奢な部屋で、中央にごてごてと装飾の施された悪趣味極まりないベッドが設えられている。衣装箪笥や棚にずらりと並んだ本に酒瓶だけを見れば「どうして娼館にこんな部屋が」と首を傾げるが、壁に掛けられた鞭や棍棒や拘束具や得体の知れないピンク色の液体が入った小ビンなんかがいかにもほの暗い雰囲気を醸し出している。

 

 要するに、あんまり褒められたものじゃない性癖をお持ちの常連様が思う存分楽しむための特別室なのだろう。女を痛めつけて喜ぶような嗜好のまるでないザビーダにはいまいち理解しがたかったが。

 女は若かろうが老いてようが異種族だろうがみんな綺麗なもんだ。綺麗なもんは綺麗なまま愛でればいいだろうに。

 

 大人の男が5人くらい平気で寝られそうなベッドの上に、誰かが括りつけられている。波打つシーツと区別がつかないほど真っ白な裸体を晒しているのが目に飛び込んで来て、ザビーダは息を呑んだ。

 水色がかった短い銀髪と宝石のような紫色の瞳。ロゼの墓参り以来、ここ数十年ほど会っていなかったが、その顔を忘れるはずがない。

 ちょっと待て。冗談だろ。

「ほう、これは……。美しいな」

「光栄です」

 顔から脚にかけて、好色な視線を遠慮会釈もなくねっとり這わせる男をミクリオがきっと睨みつけた。声を上げないのは黒い布だかなんだかで口を塞がれているせいだ。

「実は2日前、我が館に侵入してきたので捕らえましてね。多少手こずりましたが媚薬を飲ませて、この通り、触れるだけで反応する体に仕上げました」

 黒服がミクリオの肩のあたりを触ると、指先が掠めただけにも関わらず、びくりと大きく震える。

「んん……っ!」 

 なるほど、ミク坊の奴も噂を聞きつけてここに来たって訳だ。あいつという先例があったから警備が強化されてたのか。相変わらずお人好しだな。俺も人のこと言えねえけど。

 ミクリオは何かに耐えるように必死で目を閉じ、荒い息をついている。黒服はミクリオの様子を一瞥してから、すっと後ろに下がり、男を促した。

「ただ、調教は済んでおりません。いわばまだ飼い主に慣れていない猫のようなもの。ですから旦那様直々に調教していただこうかと……」

「ふん。そういう趣向か」

 男の目が鈍く光った。ほとんど舌なめずりせんばかりだ。

「髪の色からすると水か?」

「さようで」

「それはいい。水の天族の身体は格別だというからな。……さあ、声も聞かせておくれ」

 男がミクリオの猿轡を外すと、ミクリオは浅い呼吸を繰り返しながら毒づいた。

「こんな……ことをして、許されるとでも思ってるのか……!」

 激昂しているせいか襲い来る快感に抗っているせいか、瞳の色がますます濃くなっている。

「知らんな」

「今のうちに放さないと後悔するぞ」

「ずいぶん威勢がいいな。それがいつまでもつか見ものだが。どう後悔させてくれるんだ? ん?」

 滑らかな胸を、男がやけにいやらしい手つきで撫でた。

「ふっ……ぅうう……っ!」

 男が撫でる度にミクリオが切なげに身を捩じらせる。声だけは出すまいと我慢しているのがいかにも負けず嫌いのミクリオらしいが、それが男の欲情をますますそそる結果になっていることにまるで気づいていない。

 男の喉が大きく鳴った。じたばたともがいているミクリオの下半身を力ずくで抑え込む。

「掘り出し物だな。気に入った」

「では、私はこれで」

「うむ」

 黒服が60°ターンして静かに離れると、男は獲物を弄ぶようなぎらつく目のまま、ミクリオの上にのしかかる。まるで醜悪なガマ蛙だ。

「さて、どうしてくれようか。時間はたっぷりある。焦らしに焦らしてその生意気な鼻っ柱を叩き折ってやるわ。泣いて懇願しながら自分から腰を振るのが楽しみだな」

「………!!」

 ミクリオの目が大きく見開かれた。白い首に男の息がかかり、ミクリオの身体が小さく揺れる。

「いやだ……やだ……! 触るな……!!」

 

「ようガマ野郎。そこまでにしときな。無理強いなんざモテねえ奴のすることだぜ」

 

 天井からすとんと降りて来た闖入者に仰天したのは、男と黒服の二人だけではない。

「……ザビーダ!? 何でここに」

「久しぶりだなぁミク坊。こんなとこで会うとは奇遇じゃねえの。ちょっと痩せた?」

 男は真っ青になったと思ったらみるみるうちに真っ赤になり、ぶるぶると拳を震わせて癇癪を起こしながらザビーダに指を突きつけた。今度は茹で蛙かよ。

「誰だ貴様! どこから入った!」

「囚われのお姫様を助けに来たヒーローさ。いいから黙ってそいつを解放しな。俺様もあんま事を荒立てたくねえのよ、後々めんどくせーから」

「おい誰か! 侵入者だ! こいつを――」

「ゲコゲコうるせえな」

 言い終わらないうちにザビーダが男を昏倒させ、泡をくって廊下へ通じるドアを開けようとした黒服を風で足止めした。その衝撃で黒服は跳ね飛ばされ、壁に強く頭を打ってずるずる崩れ落ちる。

 

 未だに現状がよく呑み込めていないらしいミクリオの脇に乗り上げると、腕を縛めている頑丈な縄を解いてやった。白い手首に縄の痕が痛々しく残っている。

ミクリオが小さく安堵の息を吐いた。

「無事か?」

「……ありがとう、ザビーダ。助かったよ」

 ミクリオが礼を口にしつつも正面から目を合わせないのは、男に組み敷かれているのを知り合いに見られたという負い目があるからだろう。気持ちは分からんでもないが。

「感動の再会に浸ってる暇はなさそうだぜ、ミク坊。ほれ服」

「何が感動の再会だ」

 律儀に突っ込んでおいてから、ミクリオはザビーダがごそごそ衣装箪笥の中を漁って放り投げた服を見て、目をパチクリさせた。

「さすがに裸はまずいだろーよ」 

「だからってこれは……」

 ミクリオの手元にあるのは体にぴったりはりつく真紅のロングドレスと、同じ色の靴だ。ご丁寧に太ももの付け根から大きくスリットが入っている。

「贅沢言ってる場合か。元の服は今ねえんだろ? 黒服の衣装はお前さんには大きすぎるし、あのオヤジの服なんざ着たかねえだろ。娼館だからコスプレ好きのスケベどものためにそういう服ばっかなんだって。あとはバニーと猫耳メイドと水着と透け透けのネグリジェだけど他のヤツがいいのか?」

「……………………………………………………」

「ここをぶち壊して外へ出るまでの辛抱だ。頑張れ。耐えろミク坊。心は泣いても顔は笑うのが男だ」

「………………………………」

 ミクリオはこの世の終わりのような顔で、のろのろとドレスを着始めた。ザビーダだって、変態野郎に好き放題された後にも関わらずこんな服を着せることに罪悪感がないではないが、素っ裸で動き回られるよりマシだ。

「………っ」

 着終わったミクリオが大きく息を吐く。

「どうした?」

「…………何でもない」

 返事までの間が異様に長かったのが気になるが、とりあえず動くのに支障はなさそうだ。

 

 ザビーダは黒服の横に屈むと、頬を2、3発張って無理やり叩き起こした。

「うう……」

 うっすらと目を開けた黒服が、見下ろしてくるザビーダに「ひぃっ」と情けない声を上げる。

「天族の女を捕まえてるってのはお前さん達だろ? どこにいる?」

「し、知らない。知っていても言うものか」

「そうかそうか、仕事熱心で結構だな。じゃあ五本の指の中でどれがいい?」

「え?」

 頬を引きつらせた黒服の目を覗き込んで、ザビーダが凄んだ。

「どの指を先に折るか親切に選ばせてやってんだろうが。それとも『ど・れ・に・し・よ・う・か・な』がいいかい?」

「ご、拷問なんかには屈せんぞ!」

「やーだね、強情な男ってのは。おいミク坊、こいつの足押さえてろ」

「……まさか……本当に折るのか?」

 ミクリオが戸惑ったように恐る恐る尋ねた。うーん、坊やにはちょっと刺激が強すぎるか。

「じゃあ、お前はちょっと離れてな。まあ今のうちに吐けば折らなくて済むんだけどよ、こいつが言わねえって言うから。いやいや人の親切は無下にするもんじゃねえと思うんだよ俺様は。な?」

 最後の「な?」は黒服に向けて言った台詞だったが、黒服は歯の根も合わないほどガタガタ震え上がってろくに反応しない。

「小指か? 薬指か? あ、人差し指にしとくか」

 片手で男の手をおさえ、もう片方の手で黒服の口を塞いだ。ゆっくりと黒服の人差し指が軋み、嫌な音を立てる。黒服の振動がますます激しくなった。塞がれた口から抑えきれない絶叫が零れ、ミクリオが思わず顔を逸らす。

「もう一本いっとく?」

「言う。言うから………。もうやめてくれ……。女達は地下だ、ここを出たところの通路を右に曲がって真っ直ぐ行った先」

 黒服は涙と鼻水と涎で顔をぐしゃぐしゃにしながら金魚のように喘いだ。

「堪え性がねえなあ。つまらん。……ああそうだ、バックには誰かついてんのか」

 これで経営のトップにいるのがひとつの街を牛耳るようなどでかい組織だった場合、これっきりでは終わらなかったり追手がかかったりと、経験上甚だ面倒臭いことになる。

「いや、いない……いないはずだ……」

「そうなん? いやー悪いね教えてもらって。お勤めごくろーさん」

 ザビーダは哀れな黒服を拳一発で失神させると、立ち上がってくるりとミクリオの方へ向き直った。

「行こうぜミク坊。もうこの部屋には用はねえ」

「今更だが、君……本当に天族か……?」

 ミクリオの何とも形容しがたい視線を背中に受けながら、分厚い扉にそっと聞き耳を立てる。昔、酒の席で教わったアイゼン仕込みの拷問術だが、案外役に立つものだ。

 外の廊下に人の気配がないのを確認して、扉を開け放った。

「長~く生きてるとな、こういう知識も身につくのよ。どうどうミク坊、見直した?」

「見直したというか……驚いたというか……正直呆れたというか……」

 率直なのは変わらないらしく、赤い絨毯の伸びる廊下を走りながらミクリオは首を振る。

「そういやお前さん、何でこんなとこに?」

「この辺りで、女性天族ばかり数名いなくなったという話を聞いて調べていたんだ。そうしたらここにたどり着いてね。だけど僕が調べ回っていることがバレていたんだろう。入るなり後ろから襲われて……」

 その時のことを思い出しているのか、ミクリオは伏し目がちだ。言葉を切ったままぱっと顔を上げると、「ザビーダは?」と聞いてきた。

「俺は街の酒場で小耳に挟んで、そのまま覗きに来たのさ。美女を颯爽と助け出して『きゃーっザビーダ様v』ってキスの洗礼でも受けようと思ったんだけどよ。そしたらあら不思議、釣れたのは美人は美人でもミクリオ坊やだったーってわけ」

 ミクリオから思いっきりジト目をされたが、そんなことでへこたれるようなら最初から軽口なんぞ叩かない。

「相変わらず不真面目だな、ザビーダ」

「相変わらず生真面目だな、ミク坊」

「止まれ貴様ら!」

 早々に騒ぎを聞きつけたらしい警備の連中がわらわらとやって来て、寄ってたかって二人を取り囲んだ。三重四重の輪はちょっとやそっとじゃ破れそうにない。結局こうなるんだったら最初からひと暴れしときゃよかったか。

 

 軽鎧に身を包んだむさ苦しい男が剣を抜き放ち、ザビーダとミクリオのちょうど中間へ切っ先を向けた。天族2人を相手にして一切怯まないとはたいした度胸だ。相当自分達の腕に自信があると見た。

「いいねえ。こちとら体がなまってんだ」

 ザビーダが唇を舐める。戦う直前の昂揚感といったら体の芯がぼこぼこ沸騰するようで、他の何にも代えがたい。そうそう、これだよこれ。

「楽しませてくれよなぁ!」

 荒れ狂う暴風が何人かを吹き飛ばし、何人かを壁に叩きつける。先方も天族の襲撃をあらかじめ考慮しているのだろう、半数は巧みに風をかいくぐり、ミクリオへ素早く突進していく。そっちの方がやりやすそうだと踏んだんだろうが、そうは問屋が卸さない。

「舐めるなよ」

 顕現させた杖が青い霊力を帯び、絶対零度の冷気が凄まじい速さで床の上を迸る。剣だの刀だのを構えて向かってくる男達の下半身が次々と氷漬けにされ、つんのめって落とした武器が金属音を立てる。

「全っ然物足りねえなあ。追加一丁願いたいくらいだぜ」

「料理のオーダーみたいに言わないでくれ……」

 呆れたようなミクリオの声に、背後から出現した第二陣の怒号が重なった。あとからあとからゴキブリみたいに湧いてくる連中だ。何人来ようが叩きのめすだけだが。

 だが、雪崩れ込んできた第二陣に気を取られている隙に、倒れていた男の一人がよろめきながら立ち上がり、背後からザビーダに向かって剣を振りかざした。

「ザビーダ! 後ろだ!」

 振り向く直前、ミクリオが男の横っ腹を惚れ惚れするような勢いで蹴り飛ばす。

「やるじゃねえか、ミク坊。でも、あんまり派手に立ち回るとドレスの中が丸見えだぜ」

「言ってる場合か! ザビーダ、彼らを全滅させるのが目的じゃない。早く行かないと女性達に害が及ぶかもしれない」

「それもそうだな」

 連中に法を犯している自覚がひとかけらでもあるなら、侵入者の排除と並行して証拠隠滅を図るはずだ。地下への道を閉ざされてしまえば、女性達を助けられない。最悪、始末されてしまうかもしれない。死人に口無しだ。

 追い縋ってくる警備担当十数名を一度吹っ飛ばしておいてから、再び通路の奥に向かって走り出す。

 

 が。

 

「……はっ……」

 ザビーダの3歩あとからついて来ていたミクリオの身体が、ぐらりと揺れた。

「おいミク坊、どうした! 大丈夫か!?」

「……大丈夫だ。心配ない」

 苦しげに肩で息をするミクリオはどこからどう見ても「大丈夫」とはほど遠い。

 強がりやがって。

 ザビーダは舌打ちをしてミクリオを荷物よろしくひょいと抱え、そのまま地面を蹴った。

「自分で走れる! 下ろしてくれ!」

「暴れんな馬鹿。落ちるぞ。大人しくしてろ」

「ひぅ……っ!」

 絨毯を踏む度になぜかミクリオが口を押さえているが、今は構っていられない。

 突き当たりを曲がった先には錠つきの立派な扉がでんと鎮座していた。「この先に他人には見せられないものがあります」と大声で主張しているようなもんだ。扉を呆気なく破壊すると、埃っぽい石の階段を下りた先に5、6人の女性がいた。属性はバラバラだが、全員ミクリオと同じように縛られ、猿轡がわりの布を噛ませられている。術を使われないようにするためだろう。

 

 手っ取り早く彼女達の縄を切り、地下室の天井をぶち壊して外に出た。ちょうど真上の部屋で盛り上がっていた、騒動に縁もゆかりもない人間の男女には申し訳なかったが、犬に噛まれたとでも思って忘れてもらおう。

 

 無事、捕まっていた全員とさっきから一言も喋らないミクリオを引っ張り出して大通りの路地のひとつに入ると、館の玄関の方に自警団の連中が殺到するのが見えた。さすがに深夜の街であれだけ騒げば誰かが通報する。ちょっと調べればあの娼館にまつわる悪い噂は入ってくるだろうし、人為的には有り得ない建物の損傷の仕方を見れば何が起きたかはだいたい見当がつくだろう。

 

 あとは司法の手に委ねることにして、ザビーダは礼を述べる女性天族達に手を振りつつ路地をふたつ曲がった。せっかくご褒美に熱いキスと抱擁を受けるチャンスだったが、四の五の言ってはいられない。

 

「おい。大丈夫か? ミク坊」

 抱えていたミクリオをそっと下ろし、路地の壁に体をもたせかけると、ミクリオは譫言のように途切れ途切れに答えた。

「何でもない……何でもないから……」

「何でもない訳ねえだろ。怪我したのか? 見せてみな」

 月明りのお陰で真っ暗闇とまではいかないが、それでも暗がりの中では、ミクリオの熱に浮かされたような表情は見えても顔色まで分からない。

 腕を掴もうと伸ばしたザビーダの手を、ミクリオがパンと払った。

「さ……触らないでくれ……頼む……」

 ミクリオの上擦った声音と小刻みに震える肩で、ようやくその可能性に思い至った。

「お前……さてはまだ薬が効いてんな」

 ミクリオは無言だったが、答えないのは肯定と一緒だ。やがて、自分の体をかき抱くようにして、ミクリオがはあっと息を吐いた。

「服が擦れるだけで……体が疼くんだ。最初は我慢できてたけど、だんだん……」

 激しく動いたせいで薬が回ったか。そうならそうと早く言えばいいものを、限界までずっと耐えていたんだろう。

「どうしたら治るんだ? これ……」

「どうしたら……どうしたらって、抜くとかか?」

「抜くって何」

 説明させんなそんなん。

「いやまあ、そのー……何だ。俺達には自然なことじゃねえけどな、性欲が滾った状態ってのがあるんだよ。で、それは吐き出せば落ち着くわけ。つうかお前、前に偽物のエリクシールを飲んだことがあるんじゃねえの!? 聞いたぞエドナちゃんに。その時はどうしたんだよ」

「あの時は……スレイに手伝ってもらって」

「て、手伝ってもらって!?」

「ふた晩余計に宿をとって寝かせてもらったのが、そんなに驚くことなのか……?」

「あ、そう」

 妙な想像した自分がアホみたいだ。

「それに、あの時はこんなに激しくなかったんだ。……どうにかしてくれないか」

 どうにかってなんだ。やめろ。潤んだ目で俺を見上げんな。腕をぎゅっと掴むな。あっち向いてくれ後生だから。

「抜いてくれ」

 ぬ、抜いてくれってお前。思わず目眩がした。おいおいおいおいおいこいつ絶対意味分かってねえぞ。意外に頑固な中身はともかく見た目は清廉潔白、純情可憐を地で行くミクリオの口からこんなドギツイ台詞を吐かせてる罪悪感と背徳感が半端ない。

「抜けば落ち着くんだろう? 君がそう言ったんじゃないか」

「あのなあ……。抜いてくれっていうのは俺に抱いてくれって頼んでるようなもんなんだって」

「ダメなのか?」

「いいかミク坊」

 ザビーダはミクリオの剥き出しの肩を両手でがしっと掴んで揺さぶった。そのせいでミクリオの喉が鳴ったが、ここはもうちょっと堪えて欲しい。つうか堪えてくれないと困る。

「お前さんは今自分が何を言ってるのか分かってない。正気じゃねえんだ。正気じゃねえ奴を喜んで抱くほど俺様の品性は卑しくないと自負してる。それにいくら美人でも俺には男を抱く趣味もガキを抱く趣味もねえんだよ。お前はその2つを兼ね備えている訳だ。分かったか? 分かったら返事しろ」

「……ああ」

 ミクリオの返事は完全に上の空だったが、ザビーダはそのまま続けた。

「それにお前が後から絶対後悔するやつだって、ほんとに。部屋を貸してやるから自分で処理することをお勧めする」

「そんなこと言われても、自分でやったことなんかないんだ。分からないよ」

「とりあえず欲望の赴くままに触っとけばいいって、あそこを。考えるな。感じろ」

「でも……」

「おいおい。いい加減にしろよ」

 ザビーダはミクリオの背後の壁をガンと叩き、声のトーンを思いきり下げた。

「俺の言う事が聞けねえってか? いつまでもぐだぐだ言ってると気絶させて宿に放り込むぞ」

 ミクリオの睫毛が揺れた。突き放すのは可哀想だが、ここで流れに呑まれてやっちまったら、あとあと一番傷つくのはこいつ自身だ。

 

 自分で言うのもなんだが俺は慣れてるし、泣きじゃくる女を落ち着かせるためだけに抱いたことも一度や二度じゃない。つまり、そういう意味で好きじゃなくても誰でも等しく同じように愛せる。でもこいつは違うだろう。こんな行きずりみたいなセックスをする奴じゃないだろう。もっとちゃんと誰かを愛して、その証として行為をするだろう。その時に思い出して辛くなるような、「しなきゃよかった」と悔いるような真似をこいつにさせる訳にはいかない。

 

 そーだそーだ、導師様に倣って3日くらい寝かせときゃそのうち治るに違いない。当て身でもくらわせて気を失わせよう。そうしよう。そう決めたら即実行だ。

 

 だが、腕を動かすより先に強く抱きつかれた。自分に比べてはるかに非力なミクリオを押し返すなんて、それこそ赤子の手を捻るより簡単だ。それなのに振りほどけなかった。密着したミクリオの体があんまり熱くて。

「……変になりそうなんだよ」

 たまに大通りを通りかかる飲んべえが、こっちを見てはすぐに目を逸らす。もしかしなくても、傍から見たら我慢できずに抱き合ってる熱々カップルか何かに見えるんだろうか。

「体がおかしくて、どうしたらいいのか分からないんだ」

 ああもう、喋るな。お前が喋る度に口の中で赤い舌がちらつくんだよ。ついでに唇にも目がいっちまってどうしようもねえんだよ。薬のせいとはいえ、これを無意識にやってるとしたらとんでもねえ奴だなこいつ。スレイ並みの朴念仁じゃなきゃ間違い犯すわ、こんなん。

 

 今は眠りについている導師に心の中で敬意を表していると、ミクリオが縋るように胸に顔を埋めてきた。その拍子に、夜目にも眩しいほど白い太ももがちらりと覗く。ふわふわの髪が直接肌に当たってくすぐったいやら触れ合ったところが火傷しそうに熱いやらミクリオの心臓の音がうるさいやら。

「何とかしてくれ。……頼む、ザビーダ」

 ザビーダは深く長い溜息をついて、ミクリオの頭をそっと撫でた。数千年生きてきて初めて知ったが、理性が壊れる音ってのは聞こえるもんなんだな。

「……知らねえぞ。どうなっても」

 

 

 

「ひと部屋頼むわ」

 懇意にしている宿の主人にぽんと金を渡すと、主人はつけていた帳簿から顔を上げてザビーダとミクリオを交互に見た。

「こりゃまた別嬪さんだねえ、ザビーダの旦那。どこで引っ掛けたんだい?」

「あんまジロジロ見ないでくれる? 大事な身体に穴があいちゃ困るからさ。それに引っ掛けたなんて言い方よせよ、まるで俺が女遊び激しいみたいじゃねーの」

「その通りだろ旦那」

 ザビーダはミクリオをさりげなく自分の陰に隠した。こんなところで他人の視線にさらされるのは嫌だろう。案の定ザビーダの背後から顔を出そうとしないミクリオをちらりと見下ろしてから、再び主人に視線を流す。

「こいつは違うんだよ」

「へいへい」

 主人はまた帳簿に目を落とすと、ヒラヒラと手を振ってみせた。

「ごゆっくり」

 

 パタン。

 

 部屋のドアをしっかり閉じて鍵まで掛けてから、ミクリオをベッドの上にゆっくりと寝かせた。娼館にあったものと比べれば広さも寝心地も豪華さも格段に劣るが、まあいいだろう。とろんとした目をしているミクリオの上に跨ると、二人分の体重でベッドがぎしりと軋む。

「一応聞くけどよ、ミク坊」

「何」

「……本当にいいんだな?」

 ミクリオはザビーダを見上げたまま、こくりと頷いた。いいも何も薬で全然頭回ってねえんだろうが。全く、酷えことしやがる。

 あんなガマ野郎の玩具にされかかったなんて、ミクリオにしてみれば一生涯残る汚点だろう。出来ることなら、本当に出来ることならだが、こいつにはそういう汚いことを知らずにいて貰いたかった。まだほんの子どもみたいな天族が抱えるには重すぎるものを好き好んで背負い込んでしまったこいつに、もっと穏やかで綺麗なものを見ていて貰いたかった。傲慢かもしれないが。

 柔らかい髪を撫でると、ミクリオがくすぐったそうに小さく身を捩る。その耳元に口を寄せて、囁いた。

 

「安心しな。俺が記憶全部ぶっ飛ぶくらい気持ち良くしてやるよ、ミクリオ」

 

 そのまま赤く色づいた唇をゆっくりと指でなぞり、口付ける。キスも初めてなんだろう。息の吸い方がよく分からないようで、角度を変えてキスする度に苦しそうに眉を顰めている。

「ちゃんと息吸え。焦らなくていいから」

 口の中で所在なさげに動く舌を捕まえる。舌が絡まり合うだけで痺れるような快感らしく、ミクリオの腰が終始浮きっぱなしだ。折れそうに細いそれを掴んで抱き寄せると、ミクリオは小さく喘いだ。

「ん……ふ……っ」

 五感のうち、一番男を揺さぶるのは視覚、女は聴覚だと聞いた。だから女はキスの時に目を閉じるし、男はムードそっちのけであられもない姿に興奮する。ミクリオがキスの間中薄く目を開けてるのはそのせいだ。こんな間近でこいつの瞳を覗き込んだことがなかったが、綺麗だな。本当に。

 自分も口説いた女に「いつも炎が舞ってるみたいな目」なんて褒められたことがあるが、こいつのはなんというか、瞳の中にもうひとつ別の世界が見えるようだ。

 唇をはなすと、ぬらぬら光る唾液が後をひく。

「……っはぁ……」

「次はどうして欲しい? 言えよ。お前さんの望む通りにしてやる」

 吹き込むように甘ったるく言いながら柔らかく耳を噛むと、ミクリオの身体が一際大きく跳ねた。お、弱点発見。

「や、だ、そこは、だめ、だっ、て」

 反射的に逃げようとする身体を体重でがっちり固定して、動けないよう頭を枕に押さえつける。耳を舌で何度も嬲ってとどめに舌先を耳の中に突っ込むと、ミクリオが声にならない声で悶えた。

「さっ、き、僕の、のぞむとおりに、するって」

「嫌じゃねえんだろ」

 その証拠に漏らす吐息が酷く甘い。片手で手早くドレスを脱がせると、目が醒めるような肌がちゃちな室内照明の明かりにうっすら照らされる。

 一緒に風呂に入っていたからミクリオの裸を見たことは何度もあるが、こんな風に触れるのは初めてだ(当たり前だ普段触る機会なんかあるか)。撫でると、掌に吸いつく感触が病みつきになりそうで……いかん。

「あ……あぁあ…………っ」

 ミクリオがビクビクと身体を痙攣させた。ちょっと胸を舐めただけでイキかけるなんてどれだけ薬を使われたんだ。こいつのことだから意地張って抵抗しまくったせいなんだろうが。

 ぐったりと弛緩した足を開かせると、下半身が露わになった。透明な水が先走りであふれて、ぱたぱたとシーツに染みを作っている。

「はぁっ……は……っ…はあ……」

「辛いか?」

「いや……大丈夫」

 シーツをきつく握り締めている手の上に自分の左手を重ねた。まだ薄く縄の痕が残っている。

 ……小せえ手。もちろん一見して男だと分かる大きさではあるが、それでもザビーダの掌で簡単に包み込めてしまう。

「力抜きな」

 後ろをほぐしてやる間、首や胸にキスの雨。強く吸って痕を残してやりたい誘惑に駆られたが、未踏の雪のようなミクリオの肌に紅を散らすのは憚られた。それに、わざわざ身体に何かを残すような、独占欲に満ちたセックスをするのは自分の主義じゃない。吹いたと思ったら跡形もなくすぐ消える、一陣の風みたいな抱き方がいい。

「いいか? ゆっくり挿れるからな。痛かったらそう言え」

 自分のをひくひく動いているミクリオの後ろに押し当てた瞬間、さすがに一度躊躇した。こいつの初めての経験が俺で本当に後悔しないのかとか、こんな狭い穴に突っ込んでちゃんとこいつが気持ちよくなるのかとか。

「ザビーダ」

 やけにはっきりと名を呼ばれて、ザビーダは一瞬動きを止めた。

「気を……遣わなくていい……から」

 ミクリオが荒い呼吸を繰り返しながらザビーダに向かって手を伸ばし、腕をするりと首に絡ませる。

「来て」

 こいつはこんな誘い方を一体いつどこで覚えたんだ。これも無意識か? 無意識なのか? それとも耳年増なのか? 水の膜が張ったみたいに潤んだ目で小さく囁くその破壊力を、こいつは知っててやってるんだろうか。

「お前さん……煽るの上手いな」

 背中をぞくりと何かが駆け上がった。戦闘前のような、あの感覚。あの興奮。

 

 たまんねえな。

 

「う……ん……ふぁああっ!」

 お言葉に甘えて、あてがったそれで一気に押し拡げると、たまらずミクリオの口から嬌声が漏れた。ほんの少しずつ角度をずらしながらゆっくり腰を動かす度に、ミクリオが回した腕に力を込める。

「しっかりしがみついてな。爪立てたっていいから」

 そう言いはしたが、こっちもやや余裕がない。中もやべぇなコレ。本当にどうなってんだこいつの身体。あまりの快感に気を抜くと意識ごと持って行かれそうだが、こいつを気持ちよくさせてやると決めた以上、自分だけが先に達するなんて男が廃る。

 最初は慣らすように緩やかに、しかし徐々に勢いを増して打ちつける。何度目かに突きあげた瞬間、明らかにミクリオの反応が変わった。

「っ!? ひっ、や、」

 弱点その2発見。

「ち、ちょっと、ちょっとまって、変だ、って、なにか」

「へーえ? 何だろうねえ」

 悲鳴に近い喘ぎ声を聞かなかった事にして、ミクリオを抱き締め、より深く繋がる。汗ばんだ肌が余すところなく密着して、どっちがどっちの吐息なのかも分からない。あっつ。触れ合ったところからどろどろ溶けそうだ。

「ひ…んん……やだ、も……ぅう……っ!」

 恥ずかしいのか、この期に及んで口を押さえようとするミクリオの手をベッドに縫いつけ、汗で髪のはりつく額に唇を落とす。

「声抑えんなって。大丈夫、ここはそういう宿なんだ。俺しか聞いちゃいねえ」

 いいから感じることに集中してろ。だいたい普段から色々考えすぎなんだよお前は。たまにはてめえのことだけ考えてればいいんだ。ちゃんと全身で味わえ。

「く、あ、あああっ! む、むりっ、むりっ……! あぁあっ!!」

「そうそう。……いい子だ、ミクリオ」

 ぼろぼろと溢れる生理的な涙を拭ってやる。女の哀しい涙は苦手だが、こいつのこれはどうだろう。暴力的な気持ち良さに、抗いようもなくなす術もなく押し流されているあられもない姿は。

 などと余計な事を考えていたら、目の前で小さく火花が散った。あ、やべ。俺も、もう。

「……っく」

 そして下から突き上げるような、熱くて甘い波。

 

 

 

「忘れてくれ」

 ミクリオは室温が10度は下がりそうな勢いで落ち込んでいる。シーツを頭から被って顔だけ出したままベッドの端に座り込んでいる様子はちょっと面白いが、口にしたらぶん殴られそうだ。

「薬が抜けたと思ったら急に元気だなお前」

「あれとかこれとかそれとかとにかくもう全部忘れてくれ。あと誰にも言わないでくれ、特にスレイとエドナ」

「言う訳ねえだろ殺されるわ!」

 身内同然のスレイと何だかんだ言ってミクリオを弟のように思っているらしいエドナに知れたら全くもってただじゃ済まないだろう。付き合うにあたって一番の障害になるのは恋人の兄弟だ、なんてよく言ったもんだ。いや別に付き合ってる訳じゃないが、手を出したんだから似たようなもんだろう。多分。

 エドナに至ってはもはや問答無用で葬られる可能性すらある。まだレイフォルクの土にはなりたくない。

「すまない。僕はどうかしてたんだ」

「まあ、どうかしてたよお前さんは。ミク坊が抱きついてあんな素直に俺に縋るなんて向こう千年は見ねえなこりゃ」

 何か言い返してくるかと思ったが、ミクリオはこちらにちらっと視線を寄越しただけでまた絶賛落ち込みモードに戻ってしまった。

「女性でもないのに……なんてことを僕は……軽蔑しただろう」

 どうやらミクリオはらしくもない言動で迫った挙句痴態を晒したことと、女好きの自分に男を抱かせてしまったことの両方を気にしているらしい。

「あー気にすんな。こういうの慣れてるし」

「なれてる」

「宥めんのに慣れてるってこと。それよりちゃんと良かったか?」

 ベッドの上で足を組んだまま寝転がっていたザビーダは、上半身を勢いよく起こした。ミクリオは何も答えずに目を伏せたが、目の端がうっすら赤く染まっている。それで充分な返事だ。

「恥ずかしがることじゃねえだろ、あんな体の状態だったんだから仕方なかったんだよ。これに懲りたらもう一人で無茶すんな」

「……努力する」

「おう精々努力しろ。そして何かあったら俺を呼べ」

 ザビーダはミクリオの頭にぽんと帽子をのせた。

「呼べば風に乗って俺まで届く。どこにいてもな。そんときゃ世界の果てからでも駆けつけてやるよ。それとも、俺様と一緒に旅するか?」

 ミクリオは大きすぎる帽子を被ったまま、目を瞬かせた。

「言っとくが楽しいぜ~きっと。色んな街の祭りに連れてってやるし、お前さんの好きそうな遺跡の場所も知ってる。危ねえ憑魔や人間と会っちまっても敵なしだ。で、たまに路銀を稼ぐために通りでおやつを売ったりすんだよ。そのおやつがだんだん評判になってだな、『あの二人は何者なのかしらねえ』なーんて街中のマダムの間で噂になった頃には俺達はもう次の目的地に出発してて、その街で伝説扱いになる訳よ。風の吹くまま気の向くまま、気まぐれ道中二人旅、ってな。カワイ子ちゃんを部屋に連れ込む時は出ててほしいけど。それともお前も混ざる?」

「……もっと単刀直入に誘えないのか?」

「俺と来い」

 真正面から視線がかち合った。

 

 ずっと一人だと余計なことを考える。かつて自分自身がそうだった。何か目的があったり、打ち込めるものがあったり、誰かと一緒だったりすれば気が紛れる。今はよくても、いつこいつが落とし穴に落ちるように突然ポッキリ折れるか分からない。

 

 自分は孤独を紛らわす術なんかとっくの昔に知っているが(酒も女を口説くのも売られた喧嘩を言い値で買うのもその一環だ)、こいつはまだそこまで至ってないだろう。ただでさえ生まれた時からずーっとスレイの傍にいたんだ。覚悟はしていただろうが、もしかしたら寂しいということにすら気づいていないのかもしれない。

 

 その証拠に、ミクリオは数十年前どころか一緒に旅をしていた頃から何も変わらない。変わらなさすぎる。スレイが眠った後、こいつは一切感情を揺らさなかった。育ての親に手を下した時のように泣きもせず、自分のやるべき事を着々とこなし、誰かが冗談を言えばその場に相応しい笑顔で笑った。だがそれは、大きく振れた振り子が元の位置に戻ろうとするように、知らず知らずのうちに自分を奮い立たせて前と同じであろうとしているだけかもしれない。それに気づいた時が、一番怖い。

 おまけに、親友最優先で生きて来たせいなのかなんなのか、慎重な割に自分の身体には頓着しない恐ろしい無防備さも健在だ。

 

 ……というのを抜きにしても、この真っ直ぐな水の坊やをわりと気に入っている。一人旅に慣れ切ったこの俺が、こいつとの二人旅はさぞ楽しくて、さぞ愛おしいだろうと想像する程度には。

「……分かった」

 ミクリオは帽子をベッド脇のテーブルに置くと、今度はシーツに全身丸まってぼふっとベッドに埋まった。イモムシか。

「ただ、ひとつ条件があるんだが」

「なーに? 俺様にできることなら何なりと」

「女性を部屋に連れ込むのはやめてくれ」

「却下。マグロと一緒だかんね俺。カワイ子ちゃん見つけたら動き回って口説かないと死んじゃうのよ~」

「……宿に泊まる時はザビーダと別の部屋をとろう……」

 

 シーツ越しに頭をぽんぽん撫でてやると、「子ども扱いしないでくれ」とくぐもった声が飛んできた。子ども扱いを気にしている時点で立派に子どもなのだが、なぜかそのことに無性に安心する。

 

 俺にできることはひとつだけだ。お前の「約束」がきちんと果たせるよう、傍で見ていてやることだけ。

 

 ザビーダは小さく笑って、ようやく顔を出したミクリオの額をコンと弾いた。

 

 

end

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