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 この世には2種類の人間がいる。厄介事に首を突っ込まずにはいられないお節介な奴と、君子危うきに近寄らずを体現している奴だ。

 

 どう考えても後者の方が要領よく生きやすいのだが、悲しいかな俺はどっちかというと前者らしい。深夜に街の大通りをひとりで歩いている不用心な少女を、そのまま放っておくことができないんだから。

 

 煌々と輝くまん丸お月様に照らされて、街は湖の底にでも沈んだかのように静まり返っている。聞こえるものといえば、二人分の足音と、たまに横切る黒猫のか細い鳴き声だけ。

 

 この時間じゃなくても、若い娘がひとりで外を出歩くなんて危険極まりない。この街は王のお膝元から離れた辺境の地にあるせいで何事も寄せ集めの自警団に頼らざるを得ず、お世辞にも治安がいいとは言えないからだ。ここに限ったことじゃないが、女子どもを狙った人攫いや追い剥ぎも珍しくない。

 

 俺は真っ黒なマントを翻し、カンテラを小さく揺らしながらゆっくりと通りの奥へ向かっていく少女に近づいた。

 躾に厳しい親の目を忍んで逢引きでもした帰りだろうか。ピンと背筋の張った後ろ姿だけ見ればなかなかいい女だ。背中は美人でも振り向いたら卒倒するほどの醜女だったなんて話は巷にわんさか溢れているが、こういう事に関する俺の勘は一度だって外れたことがない。家までエスコートしてやるか。後日改めてお茶にでも誘えれば儲けもんだ。

俺は彼女を驚かせないよう十二分に配慮しながら、華奢な右肩をポンと叩いた。

 

「よう、そこの美人さん。こんな夜中に一人歩きは危ないぜ? 何なら俺様が送ってや……」

 

 一瞬、視界の端で何かが光った。ほとんど反射的に後ろへ飛び退いた俺が「少女が振り返りざまにナイフで切りつけてきたのだ」と気づいた時には、自慢の長髪が一房、地面に音もなく落ちていた。

 間一髪で避けたからいいようなものの、正確に頸動脈を狙われていた。俺が人間だったら間違いなく三途の川を渡ってる。

「……外したか」

 少女の声はどことなく低い。足元に落っこちたカンテラがごろごろと音を立てて転がり、止まる。

「次もかわせると思うなよ」

「おいおい、挨拶がわりに殺されかけるなんて情熱的なアプローチは初めてだぜ? 一体何だってんだ」

「君だな。連続で若い女性を襲い、惨殺している吸血鬼は……!!」

 

 言うが早いか、少女が刃物を構えたまま石畳を蹴った。身のこなしが素人のそれじゃない。息もつかせぬ速さで矢継ぎ早に繰り出される突きを軽くかわすが、少女は攻撃の手を緩めることなく追いすがってくる。足止めを狙ったのだろう、振り下ろされたナイフが腿に深く食い込んだ。顔をしかめてナイフの柄を手ごと掴むと、その拍子に少女の頭から長い銀髪の鬘がずるりと落ちる。

 

 ……男か。しかもまだ16、7かそこらのガキじゃねえか。野郎に声をかけちまうなんて俺も耄碌したもんだ。

 

「なかなかやるじゃねぇの、坊や。このザビーダ兄さんの動きについて来れるなんてよ。でも人違いだぜ? 俺は3日前にこの街に来たばかりの新参さ。それに美女に無体を働く趣味はねえよ」

 ギリギリと手首を締め上げても、少女、いや少年は全く怯まなかった。それどころか、みるみるうちに治っていく腿の刺し傷を見てますます表情を険しくしている。白く眩しい月光に照らされた紫色の瞳が、並々ならぬ意志を湛えてキッと俺を見上げてきた。

 

「とぼけるな! 今月に入って5人も殺されてる。大体違うというなら、何でわざわざ真夜中にあちこち徘徊するような怪しい真似をしてるんだ」

「人をボケ老人みたいに言うなよ。夜の散歩だ散歩。俺の楽しみをお前さんにどうこう言われる筋合いはねえな」

「これ以上の狼藉は許さない」

 

 俺は溜息をついた。何だか知らないが、どうやらこの坊やには何を言っても無駄なようだ。だがみすみすやられてやるつもりもない。

 

 腕を封じられた少年がしなやかな蹴りを叩き込んでくるのと同時に、俺は大小さまざまな蝙蝠の大群に姿を変え、バサバサと夜空に舞い上がった。一度は散った蝙蝠達が高い高い屋根の上で再び集まり、俺の……つまり吸血鬼の姿を形作る。元気いっぱいの坊やといえど、さすがにここまでは来られねえだろ。

 

 またもや仕留め損ねたと踏んだ少年が心底悔しそうな顔で睨んでくるのを尻目に、俺は民家から民家へ飛び移り、そのまま闇に溶けた。今日の散歩はおあずけだ。

「じゃあな坊や。夜は大人の時間だぜ。帰ってガキらしくおねんねしな」

 

 

 

 それっきり少年のことはスコンと忘れていたのだが、2週間後に思いがけないところでばったり再会する羽目になった。俺の店でだ。

 

 俺はこの街に流れて来てから、通りの一角に小さな喫茶店を開いていた。箸が転んでも笑う年頃の乙女や、暇と金を持て余した有閑マダム達が友人と午後のティータイムを楽しむようなところだ。

 

 わざわざ都市部から仕入れたこだわりの材料を使い、ひとつひとつ手作りした菓子とオリジナルブレンドの紅茶が彼女達のお気に召したんだろう。開店早々街の評判になり、数席しかない店内は彼女達の笑いさざめく声であふれるようになった。俺にとっては歓迎すべきことだ。彼女達はわざわざ先のことを思い煩ったりしない。今この瞬間を目いっぱい謳歌している。

 

 少年が店にやってきたのは、まだ忙殺されるには少し早い昼前だった。入口の扉を開ける音で、俺の方が先に気づいた。

「よう坊や、あの夜はどうも。今日はちゃんと『男』の恰好してんじゃねえか」

 カウンター下のショーウィンドウを興味深そうに眺めていた少年は、顔を上げた途端みるみる顔色を変えた。

「君は……!!」

「お客様。ご注文は?」

「吸血鬼が何でこんなところに……!」

「ご注文は?」

 少年ははっと口を噤むと、素早く周囲を見渡した。ほとんどの女達はおしゃべりに夢中でカウンターでのやりとりなど気にも留めないが、奥の席に座っていた3人の上品な中年女性のうち一人が、少年に向かって微笑んだ。

「あら。ごきげんよう、ミクリオ。あなたもここの評判を聞いて来たの? ザビーダの作るお菓子は絶品よ。私達と一緒に召し上がる?」

「……ごきげんよう。いや、せっかくだけど遠慮するよ。僕はカウンター席で食べる」

 ミクリオと呼ばれた少年は強張った表情のまま、わざわざ俺のはす向かいの席に腰掛けた。メニューを渡しても無言のまま、俺の動きを逐一目で追っている。監視でもしているつもりなんだろうか。

 

 俺はブドウのミルフィーユと甘い香りのぷんぷんするラズベリーティーをトレーに載せ、さっきミクリオに声をかけた婦人達のところへ運んでいった。背中に視線が痛いほど張り付いている。やや卑怯な気もするが、直接坊やに何かを聞いたところで答えちゃくれないだろう。

 彼女達のテーブルの上にトレーを置くと、そのまま内緒話をするように囁いた。

「あそこに座ってる、やたら上品な坊やはマルシアの知り合いかい?」

マルシアというのはミクリオを席に誘っていた上流婦人だ。

「まあ、もう私の名前を覚えてくれたの? 光栄ね」

「麗しいマダムの名前は自然と覚えるのさ」

「相変わらず口の上手いこと。主人にも見習わせたいわ。……ところでミクリオなら知り合いよ。というより、この街で知らない人はいないんじゃないかしら」

「そんな有名人なのか?」

「ミクリオはあの若さで、街の安全を守ってくれているのよ。暴漢から魔物まで勇敢に戦ってやっつけてくれるの。だから私達はあの子に感謝してるのよ」

「この間は人狼を退治してくれたわ。危うく私の可愛い坊やが殺されるところだったの。あの子がいなかったらと思うと震えて夜も眠れないわよ」

 マルシアの右隣にいた婦人が口を挟んだ。

「自警団の人間なのか?」

「いいえ。ミクリオは一人でやっているの。自警団といっても、柄の悪い傭兵崩れの集まりのようなものだし、お金持ちから寄付を受け取ってそっちを優先的に守ったりしているんですもの」

「あんな人達、泥棒一人と取っ組み合いしただけで『吸血鬼に襲われた!』なーんて大法螺吹くに決まってるわ」

「そうよそうよ」

「でも、そんなことをしていると自警団から睨まれるし、危ないからそろそろ辞めたらどうかしらと言ってるんだけど。聞く耳を持ってくれないのよ。あの子ああ見えて頑固なの」

「だろうな」

「え?」

「何でもないさ。こっちの話だ」

 マルシアはミクリオの方を眩しそうに見ると、優雅な仕草で紅茶を啜った。

「……主人は『自警団に高い金を払ってるんだからそっちに頼め』とか『あんなみなし子に構うな』なんて言うけど、あの子の方がずっと頼りになるもの。殿方は大変ね、お金のいざこざや世間体に縛られなきゃいけないんだから。女の方がよっぽど自由だわ」

「バレたら旦那さんに叱られるんじゃねえの?」

「そうねえ。バレたら叱られちゃうわね。でも、ひとつくらい殿方の知らない秘密を持っている方がちょうどいいのよ。あなたもそう思わない?」

 にっこり微笑むマルシアに軽く笑みを返すと、彼女達に礼として洋梨のコンポートを振る舞ってから、カウンターに戻った。

「ご注文はお決まりですか、お客様」

 ミクリオは敵意を微塵も隠さずに、俺の方を真っ直ぐ見上げながら呟いた。

「……白桃ゼリー」

「承りました。何も頼まねえのかと思ったぜ」

「喫茶店に入って何も注文しないなんてマナー違反だろ」

 どうやら思った以上に真面目な奴のようだ。警戒心剥き出しの癖に必要以上に声を荒げたり暴れたりしないのは、場を弁えているからだろう。ミクリオ以外は俺のことを吸血鬼だなんて夢にも思っちゃいない。客にとってはただの喫茶店のオーナー兼パティシエ兼ウェイター兼流れ者の色男だ。

「日光が苦手……鏡に映らない……高い治癒能力……燃え上がるような赤い目……」

 俺が注文の品を準備する間、ミクリオは口元に指を当てて何事かぶつぶつ言っている。

「一般的な吸血鬼の特徴だな」

 飾り用のミントの葉を慎重にのせながら脇見もせずに言うと、ミクリオが視線をこちらにずらしてきた。

「吸血鬼は昼間活動しないはずだ」

「俺は吸血鬼の中でも異端なのさ。いいだろ、9時5時で健康的に働く吸血鬼がいても」

「だからって、吸血鬼が喫茶店だなんて。何を企んでる」

「別に何も企んじゃいない。この間も言ったが俺は人を襲っちゃいないし、吸血鬼は感覚が鋭い。味覚だってそうさ。そういう長所を活かしてあちこちの街を転々としながら商売してる訳だ。自分の能力をどう使おうが俺の勝手だろうが。……ほい、ご注文の白桃ゼリー。新作のブラッドジュースを添えて」

「ジュースは頼んでないんだが……」

 ミクリオは目の前にドンと置かれた赤黒いジュースに戸惑ったようだ。

「新しいメニューを試して欲しいのさ。お代はいらねえよ。率直に感想を述べてくれれば」

「血じゃないだろうな」

「疑り深いな。ただのザクロジュースだよ。強いて言うならとれたて新鮮なザクロを贅沢に使用した、栄養たっぷりお肌ツヤツヤ美容効果抜群の特製ジュースだけどな。むくみにも効くぜ」

「……胡散臭すぎる……」

 ミクリオは手を付けるかどうかしばらく迷っていた。血じゃないにしても、毒でも入ってるんじゃないかといぶかったんだろう。ほんと疑り深ぇな。

 

 だが、さっきの上流婦人トリオが帰り際に「あらあらまあまあ、美味しそうな飲み物ね。私達はいただけないの?」「ミクリオ、感想を聞かせてちょうだい」と興味津々で覗き込んでくるものだから観念したらしい。しまいには彼女達が「飲まないなら一口飲ませてもらえないかしら」と言い出しかねなかったからだ。ミクリオは恐る恐るグラスを持ち上げた。

「……ん! 美味い」

「どうだ?」

「酸味が強すぎるかと思ったけど、ちょうどいいな。ゼリーにもよく合って――」

 言いながら俺がニヤニヤしているのに気づいて、ミクリオは咳払いをした。

「……ごちそうさま。代金は置いておく」

「あら、あなたもこの店のメニューを気に入ってくれたのね」

「そういう訳じゃ……」

「嬉しいわ、私の好きなものをミクリオも好きになってくれるなんて。あなた、何でも一人で背負いこんじゃうんですもの。たまにはこういうところでほっと一息つかなくちゃ」

 マルシアは自分の頬に手を当てると、おっとりと笑った。

「ザビーダ、この子と仲良くしてあげてちょうだいね。根はとても素直ないい子なの。ミクリオ、この人、見かけはがさつだけど悪い人じゃないのよ」

 どうやら俺とミクリオの間に漂う不穏な空気を見抜かれていたようだ。女の勘は侮れない。

「……いい女の頼みとありゃ断れねーな」

「お世辞として受け取っておくわね。それじゃあまた明日」

 3人がきゃらきゃらと若い娘のように笑い合いながら出ていくや否や、ミクリオは真剣な顔でぱっと俺の方に向き直った。

「君の疑いが晴れた訳じゃない。何がなんでも凶行を止めてみせる」

「結構だな。相手を間違えてなきゃ」

 ミクリオが足早に去っていくのを、俺はその後ろ姿が通りの雑踏の中に消えるまで何となく見送った。

 思い詰めたような目が妙に印象に残った。

 

 

 

 初対面でミクリオと激しくぶつかったものの、俺は夜の散歩を止めたりはしなかった。その気になれば霧や蝙蝠に姿を変えて身を隠すことができるし、吸血鬼だとバレて大勢の兵士に追われた経験も数百年生きてる中で一度や二度じゃないから、多少腕が立つとはいえガキ一人に狙われるくらいどうってことない。せいぜい絡まれると鬱陶しい程度だ。

 

 ミクリオが大人達に俺の正体を明かす可能性もないことはないが、一匹狼で負けず嫌いそうなあの坊やがそうそう他人に漏らすとは思えない。ミクリオは「自分がやる」ことにこだわっているように見えた。なぜだ?

 

 そんなことを考えながら通りを歩いていたせいで、路地の暗がりに誰かが倒れているのをうっかり見落としかけた。

「おい、どうしたんだあんた。大丈夫か!?」

 首から腰にかけてべっとり血のついた女が、視点の定まらない目で俺を見上げる。

「た……たす……け……」

 ガチガチと歯が鳴り、口の端からごぼりと血とも唾液ともつかないものが零れた。明らかに致命傷だ。呼吸も激しく乱れている。もう手の施しようがないということは一目で分かった。だがこのまま置いていく訳にはいかない。

 俺は服に血がつくのも構わず女を抱え上げると、路地を飛び出しかけて――足を止めた。

「どけ、ミク坊。今はお前さんと遊んでやってる暇はねえ。見て分かれ」

 俺の後を尾けてきていたミクリオは、拳を握りしめたまま目の前から動かない。不意に吹いた風でミクリオの銀色の髪が舞い上がる。

「その人をどこへ連れていくつもりだ」

「町医者のとこだ、決まってるだろ。どけ。二度言わせんな」

「僕が連れていく。ねぐらでとどめを刺されでもしたらたまらない」

「お前な! いい加減に――」

 こうなったら手荒な真似をしてでも通ってやろうと拳を固めた時、女がぶるぶる震える指でゆっくりとミクリオを指差した。いや、ミクリオじゃない。その、後ろ。

 

 ミクリオに覆い被さる黒く巨大な影。

 

「に、にげ、て、」

「伏せろミクリオ!!!!!」

 弾かれたように前に転がったミクリオの頭上を、人間の3倍はあろうかという太い腕が掠めた。空振りした一撃が隣の家のレンガ塀に当たり、粉々に粉砕した。なんつう馬鹿力だ。

 

 すぐに体勢を立て直したミクリオがすかさず眉間めがけてナイフを投げつけたが、影はびくともしない。人間のような輪郭をしてはいるが全身塗りつぶされたかのように真っ黒で、頭や肩や腕が奇妙に大きく膨れ上がっている。人で言うなら眼窩のあたりで、どす黒く濁った赤い目がこの世のものとは思えないおぞましい光を放つ。

 口からだらだらと真新しい血が流れて、地面にいくつもの染みを作った。女の血だろう。鮮血に混じって、白い牙がちらちら見える。

 目が、ゆっくりと三日月を形作った。笑ったのだ。

 

 こいつは。

 こいつは、まさか。

 

「吸血鬼……なのか……?」

「何してるミクリオ! 逃げろ!! お前の敵う相手じゃねえ!!!!」

 影は恐ろしい速度でミクリオに迫った。紙一重で奴の豪腕をかわしたミクリオが、再度ナイフを構える。

「そういう訳にはいかない。危険な奴なら、なおさら今倒さないと……!」

 次々に飛ばしたナイフはあっさりかわされ、街路樹に突き刺さる。ミクリオに狙いを定めた影が猛然と飛びかかり、鋭い牙をのぞかせて大きく口を開けた。ミクリオはなぜか避けもせず、食いちぎらんばかりの奴の一咬みを右腕で受けた。

「ぐっ……!! ぅうう……!!!」

 歯を食いしばったミクリオの左手に、刃がきらめく。

「ばっ……!」

 

 自分の右腕を犠牲にして奴の動きを封じる気か!

 

 ミクリオが渾身の力で影の両目を切り裂いた。両目から真っ赤な液体が迸り、影が獣のような咆哮を上げて一瞬怯んだ。だが一瞬だ。目を倍以上に見開いたそいつは、無茶苦茶に怒り狂いながらミクリオの首を刎ねようとした。俺は女を抱えたまま奴の(おそらく)脇腹に蹴りをくれた。衝撃で奴の顎がミクリオの腕から離れる。

「……っ鹿野郎! なんて無茶しやがる! こっちは女一人運ぶのに手いっぱいだっつーんだ! 怪我人増やすな!!」

 俺は崩れ落ちたミクリオを片手で引っ掴むと、そのまま屋根伝いに医者のところまで脇目もふらずに走った。あれは一度目標を見失ったらまず追っては来ない。奴の習性は、よく知ってる。

 

 

 

「う……」

「起きたか、ミク坊。気分はどうだ」

 丸3日後に目を開けたミクリオは、何度か瞬きをして、ベッドからゆっくり上半身を起こした。見慣れない天井に困惑を隠せないようだ。

「……ここは……?」

「俺の部屋だ。店の2階。まだあんまり動かない方がいいぜ、何か飲むか?」

 俺が食器棚からガチャガチャとカップを引っ張り出すのを、ミクリオはぼんやり見ていた。運搬中に気を失ってしまったミクリオを叩き起こした医者に診てもらったはいいものの、ベッドがいっぱいだったので俺の家に引き取ったのだ。

 

 ミクリオの家に置いて来ても良かったが、そもそもこいつがどこに住んでるのかも知らないし、一人で身寄りもなく暮らしていると聞いて気が変わった。乗りかかった船だ、最後まで面倒を見てやるのが筋ってもんだろう。

 

「医者は全治1ヶ月だと言ってた。幸い神経も切れてねえ。あのオヤジ、飲んだくれだけど腕はいいな」

 血だの泥だのがついた服をそのままにしておく訳にもいかなかったので、とりあえず俺の服を着せてやっているが、案の定大きすぎてダボダボのワンピース状態だ。その無防備な格好のせいもあるだろう。ホットミルクを受け取り、ちびちびと飲んでいるミクリオはひどく頼りなげに見える。

 

 こいつが運ばれてくる度に肝が冷える。

 

 町医者のオヤジは聴診器を外しながらそう言った。ミクリオの身体にはあちこち傷があって、俺の目から見ても真っ白な肌に刻まれたそれは相当痛々しかった。

 

 ほんのちっこいガキの頃からミクリオを診てるが、昔はまるきり女の子みてえな見た目でよ、身体も弱くてよく熱を出してた。よく食べてよく遊ばねえと俺みたいな立派な男になれねえぞ、なんてからかったもんだ。「立派な男は昼間からお酒を飲んだりしないよ」って減らず口を返してきやがったな。ほんとに生意気で、賢いガキだった。

 

 こいつがこうなったのは両親が流行り病でおっ死んで、おまけにやんちゃ坊主の幼馴染が街を出てってからだ。ミクリオはたった一人で力と技を磨いた。

 こいつは誰にも頼らない。媚びない。折れずに凛と立って、俺達街の人間を守り続けてる。でもよ、まだ子どもなんだよ。大人に頼って欲しいと、子どもは守られて然るべきなんだと、甘えてくれたって構わねえんだと、そう思っちまうのは俺がオジサンになった証拠なのかねえ。

 ……俺達大人が頼りないのがいけねえんだろうな。

 

 ミクリオは「ありがとう」と空になったカップを片手で返すと、そのままベッドを下りようとした。

「おい。どこ行くつもりだ?」

「あれを野放しにしておく訳にはいかない」

「ったくホント融通のきかねえ奴だな。今の状態じゃ死にに行くようなもんだ。いいから寝とけって」

「でも」

 俺はミクリオの肩を強く掴むと、剥き出しの首筋に顔を埋め、噛む寸前で止めた。

「ふ……っ!?」

「……一歩でもこの部屋から出たら、その瞬間噛んで俺のお仲間にしてやる。それでもいいのか? ん?」

「……」

 動きを止めたミクリオの胸をトンと押してもう一度ベッドに転がすと、上から布団を掛けてやる。

「それにあれも手負いだ。お前さんの傷が癒える間くらいは人を襲わないだろうぜ。断言してもいい。……次に会った時は奴もピンピンしてるだろうが」

「あれと戦ったことがあるのか」

「二度目だ。……当分ベッドは貸してやるよ。枕が固いとか寝心地が悪いとかいう文句は受け付けねえからな。野郎に俺様の寝床を使わせてやるだけでも出血大サービスだ」

 ミクリオはしばらく「あの」と何かを言い淀んでいたが、やがて意を決したようにまたむっくりと起き上がると、痛みに顔をしかめながらベッドの上に正座した。

「疑ってすまなかった」

「あ?」

「君を犯人だと思い込んで追い回した。さぞ傷つけただろう。本当にすまない。……この償いはする」

 そんなこととっくに気にしちゃいなかったが、珍しく殊勝なミクリオを見ていると悪戯心がむくむくと湧いて来た。ちょっとくらいからかったってバチは当たらねーだろ。

「そうだよなぁ、出会い頭に殺されかけた訳だしな~」

「う」

「おまけに久々に人間二人運んで腕は筋肉痛だし、医者のオヤジに金をだいぶ搾り取られちまったしな~いやぁ身体も懐も痛ぇな~」

「う……。許して欲しいなんて虫のいいことは言わない。僕にできることなら何でも言ってくれ。診察代もここにいる間にかかった費用も払う」

「僕にできることなら何でも、か。……ミク坊の血は美味そうだなぁ」

 囁きながらわざとミクリオの顎を指で持ち上げると、磨き上げた宝石みたいな目がきょとんと俺を見上げてくる。

「僕の血でいいなら提供する。もちろん、噛まれるのは御免だから自分で血を採ることになるけど」

「あー冗談だ冗談! 本気にすんな! 別に血には不自由してねぇの!」

「そ、そうなのか」

「世の中には金と引き換えに血を提供してくれる奴がいるんだよ。そういうところから買ってんだ」

「どうして直接人から吸わない? 推奨してる訳じゃなくて単純な疑問だ」

 俺は一瞬言葉に詰まった。

「……ただの趣味さ」

「趣味?」

 合点がいかない様子のミクリオを見なかったことにして、俺はカップを桶の水の中に放り込んだ。

「お前、本当に何でもするか?」

「? ああ」

「じゃあ動けるようになったら、俺の店を手伝え。一人じゃなかなか手が回らねーんだ。もう一人欲しい」

「それでいいなら、僕は構わないけど」

「よし。じゃあ一刻も早く傷を治して俺と俺の客のために身を粉にして働けよミクリオ坊や」

「何だその言い方は……」

 ミクリオは呆れた顔をしたが、俺が「寝ろ」と命じるともそもそと大人しく布団に潜り込み、すぐに寝息を立てだした。やっぱりまだ休養が必要なんだろう。なーにが「野放しにしておく訳にはいかない」だ。お前の方がよっぽど野放しにしておけねえわ。

 ミクリオを傍に置いたのには、償う償わない以前にもうひとつ意味があった。だが、俺はそのことをミクリオには告げなかった。

 

 

 

 ミクリオは喫茶店の店員としても優秀だった。呑み込みが早く、ウェイターとパティシエの両方をあっさりこなした。菓子に至っては俺も舌を巻くような見事な出来だ。元々おやつ作りが趣味で、最初に俺の店に入ったのも菓子に興味をひかれてのことらしい。お陰で店が回るようになっただけでなく菓子のレパートリーも一気に増えて御の字だ。ついでに言えば美形二人が接客するとあって女性客からの評判も上々ときた。

 

 街の古株でもあるらしい常連たちがいちいちミクリオと顔を合わせる度に「職替えしたのか」だの「店主にたぶらかされたんじゃあるまいな」だのと聞くのには閉口したが。

 

 ミクリオは俺への警戒が解けたせいか、よく笑うようになった。前は端正過ぎる美貌と錐のように鋭く尖った態度のせいで冷たい印象があったが、想像以上にくるくる変わる表情が面白くてついつい構ってしまう。俺に対してずっと気を張ってただけでこっちが元々のミクリオの性格なんだろう。

 

 大人びてるかと思えば時々やたら子どもっぽいし(お互いのイチオシメニューのどっちが売れるか競争して僅差で負けた時には本気で悔しがってた)、鋭いかと思えばめっぽう鈍いし、こうと決めたら縦のものを横にも斜めにもしやがらねえ頑固者かと思えば、こっちがびっくりするほどの素直さを見せることもある。

 

 それでも俺は、ミクリオが時々ふっと憂いを帯びた表情をすることに気づいていた。やっぱりあれのことが気になるんだろう。それとも、他の何かだろうか。

 

 それを裏付けるように、ミクリオは昼間どんなに笑っていても、寝ている時は幼い子どもみたいに丸くなる。丸くなって眠るのは不安を抱えている証拠だ。ミクリオは不安や心配を絶対に表に出さない。その分、こういう時に隠し切れないものがほろほろと星屑のように零れ落ちる。

 

 俺はミクリオがベッドで寝ている間使っているソファからそっと起き上がって、たまに、本当にたまにだが、眠っているミクリオの手を握ってやることがあった。何だかそうしてやるのが正しいような気がしたのだ。あたたかくて冷たい手を握ってやることが。

 

 こいつはこんな風に誰かと寝たことがあるんだろうか。

 どれだけの夜を、こうやって身体を丸めて憂いや不安や悲しみをボールみたいに抱えながら過ごしたんだろう。今は抱えられていても、膨れ上がったらいつか手が痺れて落っことしたりしないだろうか。

 ……俺が考えることじゃねえな。

 

 俺は手を握ったまま浅く眠り、空が白み始めると起こさないように放して定位置に戻るのが常だった。そういう時、ミクリオはたいてい、いつの間にか俺の手を握り返していた。おそらく無意識だったんだろうが。

 

 

 

「もうじき1ヶ月だ」

 閉店後、店の後片付けをしながらミクリオがそう言った。

「もう元通りに動けるのか」

「ああ」

「本当か~? しばらく運動してないからなまってたりして」

 言い終わらないうちにフルーツナイフが俺の頬すれすれを掠め、壁にかけられていた小さなリースの(客からのプレゼントだ)穴の中心に刺さった。

「どうだい?」

「……お見事。備品壊すんじゃねえぞ」

「壊さないように投げてるさ。……そろそろ、あれを捜そうと思う」

「また女装でもして囮になるつもりか」

「そうだね」

 俺は皿を食器棚にしまうと、壁に刺さったナイフを引っこ抜いて洗浄しているミクリオの方へ向き直った。

「なあミク坊。悪いことは言わねえ。あれから手を引きな」

「……どうして」

「あれはとんでもねえ化け物だ。お前の手には負えない」

「それでもやらなきゃいけない」

「聞け」

 俺はミクリオの手を掴んだ。

「いいか。あれはな、吸血鬼の『なりそこない』だ」

「なりそこない?」

「そうだ」

 

 ミクリオをカウンター席に座らせると、自分もその隣に腰かける。店内は照明を半分落としているせいで薄暗い。

 

「吸血鬼に噛まれた人間は全員吸血鬼になるんじゃないのか」

「違う。……俺達吸血鬼は人を噛んだ時、血を吸うと同時に自分の唾液を送りこんでる。これが強力なウィルスみてえに相手の身体の情報を強制的に書き換える訳だな。だから上手くいけば吸血鬼の眷属として不老不死の肉体を得る。ここまではいいか?」

「ああ」

「でも運が悪けりゃ、吸血鬼の力が強すぎて化け物を生んじまう。その結果があれだ。見た目や治癒能力は俺達吸血鬼の特徴を受け継いでいても、理性のぶっ飛んだ異形のモノだ。目についた生き物を手当たり次第に襲うだけのけだものだ。その癖あれは執念深い。怪我をさせたお前を真っ先に狙うだろう」

 

 俺がミクリオを手元から離さなかったのは、こっそりあれを捜しに行ったりしないよう見張っておくためだ。あれはミクリオのことを忘れていない。本能で覚えている。ミクリオを見つけたら、何がなんでもその身体を喰らおうとするだろう。

「好都合じゃないか。他の人が襲われなくて済む」

 言うと思った。

「何だってお前さんは自分の身体に頓着しねえんだ? 俺が親切に忠告してやってんのによ。あれの強さは戦ったお前が一番よく分かってんだろ」

「……君の忠告はありがたい」

 ミクリオはカウンターの上で手を組んだ。ほの暗い明かりがちらちらとミクリオの白い横顔を照らす。

「でも、退く訳にはいかない。僕は僕の力で、生まれた街を守りたい」

「勝てないかもしれなくてもか」

「スレイと……幼馴染と約束したんだ。都に招聘されたスレイが立派な騎士になって故郷に帰ってくるまで、何があっても僕がここを守るって」

 

 スレイという男については俺には想像することしかできなかったが、ミクリオの幼馴染ならきっと同じように素直で真っ直ぐで、ちょっぴり不器用な奴なんだろう。

「ふーん。お前さんの幼馴染は剣の腕を見込まれて偉いさんから呼び出された訳だ。強かったか」

「強かったよ。もちろん」

「ミク坊より?」

「いいや、僕の方が強いね」

 ミクリオはツンとそっぽを向いたが、すぐに俺の見たことのない、どこか遠い空を見るような微笑を洩らした。

「……自慢の幼馴染なんだな」

「ただの腐れ縁だよ。強引で無鉄砲で、しょっちゅう僕を振り回してて、ほんとに危なっかしいんだ。でも太陽みたいに笑う奴だった。小さな頃の約束だと、君は笑うかもしれないが」

「笑いやしないさ。男にとって約束は重たいもんだ」

 強引で無鉄砲で危なっかしい太陽ね。

「なるほどな。お前さんに月が似合う訳だ」

「は?」

 太陽が昇っているうちは強烈な輝きの陰に隠れているが、日が沈むと月は闇夜を照らす唯一の光になる。淡く静謐な月明りは、時に太陽と同じくらい暗闇で惑う人々の心に刻まれる。深く。

 俺にとってこの街は、小汚くて埃っぽくて賑やかな、今まで立ち寄って来たところとそう変わらない何の変哲もない場所だ。でも、そういう問題じゃない。ミクリオにとっては、そういう問題じゃないんだ。

 

 だけど。

 

「あれに好き勝手に暴れられるなんてスレイに合わせる顔がない。この街を守れるなら、僕は」

「『死んだって構わない』なんて絶対に言うな」

 思わず、ことさら低い声が出た。

「いいか。死んだら何も残らない。一度散ったものは、季節が巡ってまた木が花をつけるように戻ったりしねえんだ。お前がいなくなったら悲しむ奴が必ずいる。お前を想ってる奴が必ずいる。お前が死ぬことで不幸になる奴が必ずいる。分かるか? 約束は生きてするもんだ。お前の幼馴染もきっとそう思ってるさ」

 

 ミクリオが弾かれたように俺の目を見た。人間であればその瞳に映るはずの俺の姿は、影も形もない。

「俺は元々人間が好きだった」

 目を閉じるとますます聴覚が冴える。とっぷり日の暮れた表通りに住む人々の息遣いまで聞こえるようだ。

 

「吸血鬼にとって人間は食事兼性欲を満たすための道具だ。俺達は性欲と食欲が一体化してる。抱きたいと思ったら噛みたくて噛みたくてしょうがなくなっちまうんだ。だから大概は目を付けた若い男女を襲って、同じ吸血鬼になれば一族に迎え入れ、あれになってしまったら殺すか、穴ぐらの中に放り込んじまう。あれは吸血鬼ですら見境なく襲うからな。……まあホイホイ人を襲ってたらお前さんみたいな奴に成敗されちまうから、吸血鬼同士で血を吸い合ったり俺みたいに商人から血を買ったりするのもいんだけどよ」

 

 俺は一度言葉を切った。

 

「だけど俺は、他の吸血鬼が人間をモノか何かみてえに扱うのが嫌だった。今日明日のことに一生懸命笑って泣いて怒って、せいぜい数十年の命を燃やし尽くす人間に興味を持った。俺達にはないものを持ってると思った。それで人にまぎれて生きてみることにした。……結果的に上手くいかなかったが。だからもう、二度と人間に惚れたりしない」

 

 俺はすぐさま失言に気がついたが、ミクリオはわざわざ追及したりしなかった。気付かなかったのかもしれないし、気付いてて知らないフリをしたのかもしれない。

 気付いてて知らないフリは俺の十八番だが、ミクリオがそんなあざとい真似をするとは思えないので多分前者だろう。まあ突っ込まれても困るが。「前に人間に惚れたことがあるのか」なんて。

 

 彼女と生きるために、日光に慣れる努力もした。彼女が「おいしい」と微笑んでくれるから、紅茶の美味い淹れ方も覚えた。死に物狂いだった。誰かが誰かを好きになるとはそういうことだ。相手によって自分が丸ごと変えられることだ。俺にとってそれはとてつもない快感だった。快感であり、喜びであり、お天道様に嫌われた不死の生物が望んじゃいけない光だった。

 

 もう何百年も昔の話なのに今でもありありと思い出せる。彼女の血を吸いたいという突き上げるような衝動に一瞬我を失った。正気に戻った時、目の前の庭に彼女が転がっていて、首筋にくっきりと噛み痕があった。嘘みたいに晴れた昼下がりで、花の咲き乱れる花壇には小さな蝶が飛び回ってた。次に目覚めた時、彼女はもう彼女じゃなくなっていた。俺のことも、二人で過ごした日々も、将来を誓い合った約束も全部忘れちまってた。

 

 俺は吸血鬼の本能に抗えなかった。運命の恋だと、真実の愛だと信じて疑わなかったのに、そんなものは何も変えちゃくれなかった。吸血鬼にも人にもなれなかった俺は最愛の彼女すら身の毛もよだつ化け物に変えてしまった。

 

 そして俺は、彼女を、この手で。

 

「……ザビーダ?」

 はっと顔を上げた。ミクリオの睫毛が気遣わしげに揺れている。

「どうして僕にそれを話してくれたんだ」

「さあな。気まぐれだ」

「……寂しくないのか」

 何でこいつはこんなに痛そうな表情をするんだ。知り合ってまだ間もない、たかが一人の怪物のために。

「……お前はいい奴だな、ミク坊」

 ミクリオの頭を無性に撫でたくなったのでわしゃわしゃ撫でると、ミクリオは「何なんだいきなり?」とぶつくさ文句を垂れた。

「心配すんな。一人には慣れてるさ」

「慣れてても痛いものは痛いだろう」

「いっちょまえな口ききやがって。俺はお前さんよりもずーっとずーっと長く生きてんだぜ? 年の功だよ、年の功」

ミクリオは乱れた前髪をせっせと直すと、それ以上何かを言う代わりに俺の方へ身体ごと向き直った。

 

「ザビーダ。あれを倒す手がかりがあれば、教えてくれないか」

「人間には無理だ」

「絶対に?」

「ああ」

「1%でも可能性はないのか」

「……お前」

「ほんの少しでも可能性があるなら、それに賭けたい」

 ミクリオの瞳は揺れない。何でだろう。こいつを見てると、あの、もう戻ってこない時間を思い出す。

「……俺が教えなきゃ、何時間でも粘るつもりだな」

「そうかもしれないね」

 俺は溜息をついて、ミクリオに手を差し出した。

「お前さんの諦めの悪さに敬意を表して教えてやる。その代わりに俺とも約束しろ」

「約束?」

「一人で無茶するな、人を頼れ。必ず生きのびろ。終わったらまた俺の店に寄れ。三つだ」

「多くないか?」

「いつ約束するのが一つだけなんて言ったよ」

「狡いな」

「大人は狡いもんさ」

「……分かった。力を貸してほしい、ザビーダ」

 俺の手を握り返したミクリオは、ふわっと綺麗に微笑んだ。

「頼りにしてる」

 

 噛みたい。

 

 ふって湧いたその欲望を、俺は速やかに押し殺した。少し前から薄々予感はしてた。人と関わる中で、深く立ち入らないよう上手く線引きをしていたつもりがこのザマだ。引き際ぐらいもう分かってる。

 

 あれを倒したら、店を閉めてこの街を出て行こう。いつものようにさよならも言わず。誰の記憶にも残る必要はない。この街を、人を、ミクリオを好きになりすぎた。

 

 これ以上こいつと一緒にいると、俺はまた間違いを犯す。

 

 

 

 

 あれを殺す方法はひとつだ。正確に額と両手足を貫いたあと炎で焼き、最後に一刀で首を切り落とすこと。そうすれば吸血鬼の再生能力を持つあれでも甦ることはできない。だが、知っての通りあれの馬鹿力とスピードの前に大概の人間は無駄に命を散らす。吸血鬼でさえ自分の治癒力だのみだ。どうしてもあれを相手にするなら、少なくとも手練れ十数人でかからねえと。

 

 俺の助言に従う形で、あれを始末するために自警団の連中が協力してくれることになった。マルシアが旦那経由でそいつらと契約してくれたお陰だ。自警団の奴らはやる気満々だったらしい。住民の心胆を寒からしめる極めて危険な化け物を葬れば連中の株は鰻上りだ。

 

 だからミクリオに自警団が協力するのではなく、表向きには自警団にミクリオが協力する形だったし、ミクリオは完全に連中から下っ端扱いされていた。だがそんなこと、ミクリオにはどうだっていいんだろう。あれを倒して街に平和が戻りさえすれば、自分がないがしろにされようが誰の手柄になろうが知ったこっちゃないのだ。

 

 入念に作戦を練った結果、ミクリオがあれを街の広場へ誘い込んで身体を縫い止めた後、連中が火を点け、とどめを刺すことになった。連中が一番ヤバい役目をミクリオに押し付けたことは見え見えだったが、あれに目をつけられているうえ一度対峙したことのあるあいつが適任なのは間違いない。

 

 というようなことを、俺は全て決まった後にミクリオの口から聞いた。

 その作戦とやらに俺は一切関わっていない。ミクリオが連中に対して俺の名前を全く出さなかったからだ。そりゃそうだろう。一介の喫茶店の主が何でそんなこと知ってんだって話になっちまう。

 着々と準備が進み、広場にあれを火あぶりにするための台が組み上げられる間、俺は以前と全く同じように客をもてなしていた。ミクリオは昼間も何かと駆り出されていたので店員は俺一人だ。

 

 住民には不安が広がらないよう「大捕物がある」とだけ知らされていたが、店で紅茶を嗜む客達も「何だかものものしいわね」と口々に囁き合いながら、夕方になると何かに急き立てられるかの如くそそくさと帰っていく。

 「何かが起こる」という異様な空気だけが、嵐の予兆のように街全体を少しずつ、少しずつ覆っていた。

 

 

 あれが再び現れたのは、いつかと同じ、静かな満月の夜だった。住人達は深夜に外を出歩かないよう街のお偉方から重々言い含められていたから、通りには蜘蛛の子一匹見当たらない。一人以外。

 あれをおびき出すために通りから広場へ至る道をゆっくり歩いていたミクリオは、急に足を止めた。木々が怯えるように不意にざわつく。それまで風もなかったのに。

 

 ミクリオの後ろ、2ブロックほど離れた路地の闇から這い出るように生まれたあれは、ミクリオに目を留めると砂とガラスが擦れるような耳障りな声を出した。にらんだ通り目に受けた傷はとっくに完治している。

 

 俺は街で一番遠くを見渡せる教会塔の上で、マントをはためかせながら様子を窺っていた。

 ミクリオは直接的に俺の手を借りようとはしなかった。あくまで街の人間達の手で決着をつけたいのかもしれないし、吸血鬼であることがバレないようミクリオなりに配慮したのかもしれない。本当はその気遣いをありがたく頂戴して大人しく家にでもいるべきなんだろうが、見届けずにはいられなかった。ああどうせ俺はお節介だよ。持って生まれたもんは変えられない。俺は俺の好きなようにやらせてもらう。

 

 ミクリオが走り出すと同時に、あれは石畳の上を滑るように猛然と後を追い始めた。しばらく動いていなかった分、さぞ腹を空かせているんだろう。胸が悪くなるような唸り声を上げながらあっという間に距離を詰める。ミクリオは確かに速いが、人間の足では奴を撒けない。

 あれの腕がミクリオの背中をとらえる寸前、凄い勢いでミクリオが体を捻り、抜きざまにナイフを投げた。額のど真ん中と右足を貫かれた奴が激昂し、怒りに任せてあちこちを拳で抉る。めくれた石畳が跳ね上がり、轟音を立てて飛び散る石礫。

 

「……くっ……!」

 

 かろうじて避けたミクリオの肩をあれの爪が掠めた。鮮血が飛び、塀に血痕が点々と散る。あれの追撃は終わらない。広場の奥へ、奥へと走るミクリオへ尋常じゃない速度で迫ると、ミクリオを押し潰す勢いで体当たりをした。たまらず数メートルは吹っ飛ばされたミクリオが樹に叩きつけられ、ずるずると崩れた。今ので骨が何本かいかれたのかもしれない。目を閉じて咳き込むミクリオに、あれが打って変わってゆっくりと音もなく近づいていく。

 

 もうこれ以上見ていられない。

 

 塔から広場の方へ飛び降りようとしたその瞬間、ミクリオが目を開けた。闇の中でほとんど漆黒に見える瞳からは、それでも、何の光も失われちゃいなかった。

 

 目と鼻の先にいたあれの両手に刃が突き刺さる。猛る黒い腕がミクリオを薙ぎ倒したが、何かが潰れるような鈍い音がしても、ミクリオはゆらりと立ち上がった。満身創痍で立つどころか呼吸するのも辛いはずだが、全くそれを感じさせない動きで奴を台の方へ思いっきり突き飛ばし、残った左足に素早くナイフを突き立てた。じたばたもがきながら台の上に転がり暴れるあれの悲鳴が茂みの葉をびりびり揺らし、ミクリオはそのまま2、3歩後ろによろめくとその場に倒れ込んだ。

 

 俺の背中を嫌な汗が伝った。

 

 何でだ。どうして誰も出てこない。

 

 手筈通りなら、このタイミングで待機している自警団の連中が飛び出し、台に点火するはずだ。だが何も起こらない。広場には複数の人間の気配が蠢いているから、いないはずはないのに。早くしないとあれがまた起き上がる。そうなったら、今度こそミクリオが。

 

 ――何だ、あの化け物も大したことねえじゃねえか。子ども一人八つ裂きにできないようじゃ。

 ――とっととくたばっちまえばいいのによ。

 ――誰も見てねえ、あれがやった事にして俺達で始末しちまうか。

 

 耳を澄ますと聞こえた言葉に、体内の血が逆流するかと思った。ミクリオが殺されるのを見計らってあの連中があれを仕留めれば、商売敵を排除したうえ連中が英雄になれて一石二鳥って魂胆か。ふざけやがってクソ野郎が。

 

 考えるより先に塔の屋根から飛び下りていた。連中をしばき倒したいところだがそんなつまらねえことに使う時間が惜しい。

 

 あいつらがやらないなら俺がやるしかない。どのみち他に手段はない。だけど問題は火力だ。俺一人であれをまるまる燃やせるほどの火が用意できるだろうか。そもそも今から店に戻っていたらその間にミクリオが連中に叩き殺されるかもしれない。息はしていたが、十数人相手に抵抗できるほど気力も体力も残っちゃいないだろう。魔女みたいに魔法でも使えりゃいいものを、隣の芝生を羨んだところで何の役にも立ちゃしない。

 

 焦っていた俺の背中が、いきなり燃えるように熱くなった。

 

「あっつ!!」

 振り返る前に、横からにゅっと松明が出て来た。

「よう。何慌ててんだザビーダさんよ」

 町医者のオヤジだ。こいつが俺の背に松明を近づけたんだと気づくまで数秒かかった。

「オヤジ……!?」

「オヤジにオヤジ呼ばわりされたくねえわ」

「何でここにいる? 危ねえから家の中入ってろって知らせがあっただろうが!」

「あんたも人のこと言えんだろうが。大体なんだよその趣味の悪いマントと帽子。仮装か? まるで吸血鬼みたいだぜ」

 オヤジの後ろに、同じように松明を掲げた人影が見える。ひとつ、ふたつ、みっつ……たくさん。

「たまには大人もいいとこ見せないと、ガキどもの教育に良くねーだろーが。俺んちの4歳の娘と6歳の息子の中で俺よりミクリオの方がヒーローなのよ。こんなことってあるか? 確実に将来『お父さんの下着は分けて洗って!』って言われるぜ。パパ寂しい~」

「知るかよ。大多数の父親が通る道だろ。つうかなんで作戦のことを知ってる!」

「あら、言っちゃいけないなんて知らなかったわ。もう皆に喋っちゃった。ごめんなさいね」

 ニコニコ微笑むマルシアがオヤジの脇から顔を出した。さては旦那から聞き出したな。

「あの台に火を投げ入れればいいんでしょう? それくらいなら私達もできるわ」

 真っ暗だった広場がいつの間にか昼間のように明るい。多分、皆ミクリオが今までに助けた奴らなんだろう。静かに燃え盛る炎が、ぞろぞろ集まる住民達の顔と頭上に輝く満月を照らしている。月に照らされるのではなく、人が、月を照らす。

「あの子に貰いっぱなしなんて御免だわ。それに、ミクリオが人の助けを借りるなんて初めてだもの。協力させてちょうだい。ここは私達の街で、あの子は私達の誇りなのよ」

 

 なあミクリオ。お前、愛されてるよ。

 

 俺にはそのあかあかとした灯が、何だか全く別なもののように思えた。

 だが、まだだ。まだ、あれの息の根を止めるまで終わらない。

「……オヤジ。俺があれをねじ伏せたら、火を投げ入れるよう皆に言え。投げこんだらすぐ離れろっていうのもな」

「あ? んなことしたらあんたが」

「いいんだよ」

「……俺は生きる意志のある患者しか診ねえぞ。うちに焼死体増やす気か」

「誰があんたみたいなアル中に診てもらうか。いいんだよ。俺は死なねえ」

 俺は建物の陰で予想だにしない展開に竦んでいる自警団の男の一人にずかずか歩み寄った。

「その剣を貸せ」

「ひっ!」

 縮み上がったそいつの腰から無言で剣を引き抜くと、一度振った。前に剣を握った時の記憶ははるか彼方だが、さすがに使い方は忘れちゃいない。俺があれに手を下せば、俺が吸血鬼だって街の連中に知られてしまうかもしれねえな。それに、どうしても彼女の最期を思い出す。

 

 それでも。

 それでも、お前が大好きな生まれ故郷と親友との約束を守りたいと思ったように、俺にだってお前を守りたいと思う権利がある。

 

 俺は地面を蹴ると、今まさに刺さったナイフを弾き飛ばして起き上がろうとしていたあれの肩にドン! と剣を突き立て、片足で体重をかけて押さえつけた。

冷たい石畳の上に横たわって小さく呼吸を繰り返していたミクリオが、わずかに頭を上げる。

「ザビー……ダ……? なんで……」

「俺も混ぜろよ、ミク坊」

 本当ならミクリオを医者のところへ今すぐ連れて行ってやりたいところだったが、その前にこいつを何とかしないとミクリオのやったことが全部無駄になる。

 俺の周りに派手に火柱が上がった。

「離れろミクリオ! 巻き込まれるぞ!!」

 すぐに治癒するとはいえ当然苦痛はある。痛いってレベルじゃない。全身が容赦なく炎に舐め取られてバラバラに引きちぎられそうだ。バチバチ火が爆ぜる音と焦げる臭いで視覚も聴覚も嗅覚もほとんど役に立たない。

 おまけに足の下であれが悶え狂い、火事場の馬鹿力で腰だの脚だのを食いちぎってくる。これほど自分が不死の怪物であることに感謝したことはない。俺は歯を食いしばって奴の首に剣を当て、力を込めた。

 夜は俺の、吸血鬼の時間だ。誰にも邪魔はさせない。誰にもだ。

 

「じゃあな。いい夢を」

 

 ぞっとするような断末魔の叫びが広場を揺るがした。業火の中で奴の姿がぶれる。

 終わりだ。

 そう思った瞬間、物凄い勢いで両腕を喰われた。手から剣の柄が離れる。まだ、あと首の皮一枚残ってるっていうのに。

 だが、剣は落ちなかった。誰かが俺のかわりにそれを掴んだ。紅蓮の炎を割って伸びてきた、俺以外の、手が。

 

 台からもんどり打って転げ落ちた俺とミクリオの背後で、耳をつんざくあれの悲鳴が徐々にか細くなっていき、ふっつり途絶えた。振り返ると、白々とした火が昇り竜のように天を焦がしているだけで、動くものはもう何もない。

 

 じりじり治っていく俺の腕の中で、ミクリオはぴくりともしなくなっていた。怪我もそうだが火傷も酷い。一瞬で血の気が引いた。頬を叩いても手ごたえがない。

「……ミクリオ?」

 静寂を取り戻した街で、薪の焼ける音がやけにうるさい。馬鹿野郎が。だからさっさと離れろって言ったんだ。俺の傍にいなくていいって言ったんだ。何で最後まで俺の言う事を聞いてくれなかったんだこの意地っ張りが。

 

 誰が見てももうダメなのは分かった。情けねえことに手が震える。何度胸を押しても心臓の鼓動が急速に弱まっていく。こいつの声が、視線が、体温が、どんどん遠ざかる。

 

 慣れてても痛いものは痛いだろう。

 

 お前の言う通りだよ、ミクリオ。何度だって痛えよ。何百年経とうが何千年経とうが臭いもんに蓋をするのが上手くなるだけだ。ごまかす知恵がつくだけだ。「そんなもんだ」と諦めるのに慣れちまうだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。経験を積むことで失うものもあると、何度でも、嫌というほど思い知らされる。

 

 ミクリオを助ける方法はもう、ひとつしかない。でも、それはどう転んでもミクリオの人間としての未来を奪うことになる。それでも生きたいと望むだろうか。もし、万が一、あれになってしまったら。

 

 ミクリオがうっすらと目を開けた。

「……だい……じょうぶ……だいじょうぶだから……」

 ミクリオの「大丈夫」が何に向けてのものなのか俺には分からなかった。もうあんまり目が見えてないんだろう、見当違いの方向に伸ばされた手を取った。今こいつの瞳に映っているのは本当に俺の姿なのか、走馬燈か、それとも俺の知るよしのない親友か。

 

 頼む。何でもする。二度と失いたくないんだ。

 

 笑える。この俺が神に祈るだなんて。生まれてこの方、そんなあてどないものに願ったことなんて一度もなかった。誰かに何かを委ねようなんて露ほども思わなかったのに。

 だが、その時確かに、俺はかたく祈っていた。

 

 ……頼む。

 

 俺は目を閉じて、ミクリオの首に牙を突き立てた。

 

 ますます冴え冴えとした月が、緩やかに流れる雲で急に翳る。

 

 

 

 

 

 カーテンの隙間から差し込む、暴力的な日差しで目が覚めた。

 

 薄ぼんやりしていた頭が次第にはっきりしてきて、俺はソファからがばっと上半身を起こした。真っ昼間だ。窓の外から通りで走り回るガキんちょどものはしゃぎ声が聞こえる。

 噛んだ後、店の2階に運んでベッドに寝かせていたはずのミクリオがいない。もぬけのからだ。ご丁寧に血だらけだったシーツは真新しいものに換えられ、布団がきっちり畳まれている。

 

 あいつ、どこへ行ったんだ。まさか俺の見ていないところで。

 

 最悪の事態を想像した時、ドアがガチャリと開いた。

「目が覚めたかい。気分はどう? 何か飲むなら作るよ」

 これじゃあいつかと逆だ。

「……お前……。お前……本当にミク坊か……?」

 我ながら全くもって意味不明な質問だったが、ミクリオはごく普通の調子で「ああ、おかげさまでね」と返した。

「ちょっとこっち来い」

 俺はちょいちょいと手招いてミクリオをソファの前の椅子に座らせると(俺が行ってもよかったが色んな理由でこれ以上起き上がれそうになかった)、頬や髪をぺたぺた触った。温かいし、傷もない。ミクリオはくすぐったそうに目を瞑ったが、何も言わなかった。生きてる。……生きてる。

 俺はふと、ミクリオの顔や体を触りまくっている今の状況は傍から見たら異常なんじゃないかと気づき、慌てて放した。

「体の調子はいいのか?」

「ああ。……それにしても吸血鬼はこんなに感覚が鋭いのか。さっきから通りにいる恋人同士の会話まで聞こえて、ちょっと恥ずかしいな」

「他は?」

「日光に当たると気分が悪くなる」

「……それはちょっとずつ訓練して慣れるしかねえな。元のような生活を送りたきゃ。俺は1年かかった」

「教えてくれ。やってみる」

 

 想像以上に体力を消耗していた俺は、ミクリオをベッドに放り込んだ直後に自分もソファの上で1週間ほどぶっ倒れていたらしい。俺がほぼ無傷で焼け跡から戻って来たことで、吸血鬼だということは広場の人間に知れてしまっていた。

 

 それでも俺が追われたりせずに済んだのは、自分も人間でなくなったミクリオや、主に店の常連客だった街の古参達が皆に辛抱強く説明してくれたからだ。

 

 ミクリオは「彼は僕を助けるために噛んだだけだ。絶対に人を襲ったりしない。僕が保証する」と断言したし、マルシアも「あなた達も目の前で見たでしょう? あの人が怪物をやっつけてくれるのを。街とミクリオの恩人を追い出すなんて化け物以下じゃないかしら」とおっとり笑ったらしい。無論反感を持つ奴もいただろう。だがそれは吸血鬼じゃなくたって起こる話だ。人と生きている限り避けられないことだ。

 

「でも良かった。目を覚ましてくれて。あまりに起きないものだから、このまま目覚めなかったらどうしようと思ってた」

 良かったはこっちの台詞だ。

 

 良かった。本当に良かった。本当にミクリオのままでいるか気が気じゃなかった。生きた心地もしなかった。死なねえが。

 だが俺は同時に、暗澹たる気持ちに包まれた。

 

「君に助けられるのは二度目だね」

「俺を恨んでねえのか。俺はお前の未来を奪ったんだぞ」

「奪った?」

「お前はもう人間じゃない。歳をとることもない。この街はともかく、他のところで後ろ指差されることになるかもしれない。何より……気心知れた奴らが老いて、逝っちまうのを見送るのはお前にとって辛いと思うぜ」

 

 正直、俺はミクリオが眷属として生まれ変わった時には、どんな罵声を浴びせられても仕方ないと思っていた。「失いたくない」なんてつきつめれば俺の我が儘だ。それに付き合わせてミクリオに全く違う生き方をさせるのは本当に正しいことだっただろうか。

 

 あの時と一緒なんじゃねえか。自分の欲求に呑まれて彼女を噛んだあの時と。あれから俺は何ひとつ変わってねえんじゃねえか。

 

「『約束は生きてするものだ』と言ったのはザビーダだろう」

 

 ミクリオは真っ直ぐ俺を見つめた。瞬きもせずに。

「それは、目が覚めた時は驚いたけど……。そうするしかなかったことくらい僕にだって分かるよ。君は僕の望みをかなえてくれただけだ。今ここで、ちゃんと生きてる。それだけで十分だ。君が気に病む必要なんかない。抱える必要もない。何も」

 俺はソファに深く沈み込むと、片手で髪をかき上げた。

 ……参った。

「……お前さん、時々びっくりするくらい男気あるよな……」

「もちろん、君に教えてもらわなきゃいけないことはたくさんあるけどね」

 言いながら、なぜかミクリオはシャツのボタンをひとつひとつ外し、あろうことか上をはだけさせた。

「何してんだお前は!? 着替えなら向こうでやれ!」

「何って、君、今起き上がれないんだろ」

「それがどうした」

「血を吸った方が体力回復しやすいだろ」

 ミクリオは首を傾げ、「そんなことも分からないのか」とでも言わんばかりだ。

「……そりゃあそうだけどよ。そんな簡単に吸わせていいのか」

「吸血鬼同士なら特にリスクはないんだろう? 大丈夫、こう見えても血液がサラサラだって褒められたことがあるんだ」

 自慢気に言ってるが誰もそんな心配してねーよ。つうか乗るな! ソファの上に! くっつくな! なんか甘い匂いがするから!

 という俺の心の叫びは結局口から出てくることなく、腹の中で消化された。ミクリオの白くて滑らかな首筋から目が離せない。

「……ならお言葉に甘えて」

 細い身体を正面から抱き寄せ、動脈の位置を確かめるために首筋を舐めると、ミクリオの喉が小さく鳴った。

「……っ…………」

「痛くねえようにするから安心しな」

 ところが、さぁ噛もうという段になってミクリオが吐息混じりに聞いてきた。

「……そういえば、何で噛むのは首なんだ? 血を吸うだけなら手首や脚や胸だっていいんじゃないか」

 どうでもいいところに気が付くなこいつは。既に昂ぶって噛みたくて噛みたくてうずうずしてる時に言うか普通? 俺が紳士じゃなきゃ四の五の言ってる間に押し倒して無理矢理吸ってるぞ。

「……じゃあついでに講義してやるよ。ひとつは、心臓に近いぶん新鮮な血にありつきやすいからだ。噛む時に血管を探しやすいってのもある。もうひとつは」

 俺はミクリオを抱きすくめ、そのまま首から肩にかけて食らいついた。

「っあぁ……!?」

 言い忘れたが吸血行為には吸う側も吸われる側も快感が伴う。そのために自ら身体を差し出す人間もいるくらいだ。

 

 急に与えられた未知の感覚にもがくミクリオを腕の中でがっちり押さえ込み、あふれてくる血を思う存分貪った。同じ吸血鬼同士とはいえとれたての新鮮な血を飲むのは久しぶりだ。そのせいもあるだろうが、思った通りミクリオの血は極上だった。濃厚で甘くてコクがあって……止まらない。

「や、は、あう」

「……こんな風に獲物から抵抗されにくくするためだ。もっと安全に、背後から抱き締めるフリをして噛む奴もいる。試験に出すぞー」

「み……耳元で喋らないでくれ! 息がかかる!」

「お前が聞いたんだろうが」

 構わず再び首元に噛みついて吸い上げると、ミクリオが仰け反って身体を震わせた。

「ひ……あぁあっ、やっ、」

 命が危なくなっても痛いだの辛いだの助けてくれだの口が裂けても言わなかったミクリオが、今やうっすら涙目だ。苦痛には強いがこういう気持ち良さには免疫がまるでないとみた。

「ちょっと、ちょっと待って……! ぬ、抜い」

 だーめだ。

 と心の中でだけ返して、俺はミクリオを抱き締めていた腕を離した。無意識に暴れられて殴られでもしたらコトではあるが、いくらこいつが了承しているとはいえ相手の自由を奪って吸うなんてのは人の道というか吸血鬼の道というか俺の道に反する。

 

 幸いミクリオは無我夢中で俺の首に腕を回してきた。俺の位置から顔は見えないが、必死で目を瞑って快感に耐えてるんだろう。その表情を想像しただけで、何というか、クるものがある。

 髪をそっと撫でると、それすらも刺激になるのかビクッと肩が揺れた。……最高に気持ちいい。こんな気持ち良さは、他に知らない。

 

 もう十分だ、というところで、俺はゆっくり唇をはなした。ミクリオは腰が抜けたのか、俺の首に腕を回したままぐったりと荒い息をついている。

 

 いかん。やりすぎたか?

 

「ミク坊にはちょーっと刺激が強かったかもしれねえな」

「仕方ないだろ、血を吸われるなんて初めてなんだから……!」

 息も絶え絶えなわりに元気な返答だが、キッと睨み上げてくる瞳はいい具合に潤んでいて、全く全然ちっとも迫力がない。

「吸われてあれだけ乱れるとは素質満点だな。お前ほんとはマゾっ気あるんじゃねえの」

「ば、馬鹿にするな!」

「褒めてんだよ」

「全然褒めてないだろ」

 強気な口調とは裏腹に、まだ立てないらしいミクリオのシャツのボタンを一番上まで留めてやって(自分でできると嫌がられた)、ソファとは反対側の窓まで行き、カーテンと窓をほんの少し開けた。

「元気になったかい?」

 後ろからミクリオの声が飛んでくる。窓の下で、マルシアと、ボール遊びをしていたガキが俺に向かって手を振っているのが見える。

 

 ……この街が、俺の、今の居場所。

 

「ああ。もうすっかり元気さ。……ありがとよ」

 

 

 俺はミクリオの方を見ずにそう言うと、窓を閉め、カーテンを閉じた。

 ほんの一瞬吹き込んだ爽やかな風が、踊るように、歌うように、俺の髪を舞い上げる。

end

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