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 よく「意外だ」と言われるが、朝はミクリオより俺の方が強い。
 もう長いこと色んな街で商売してきたので早起きに慣れてるというのもあるし、人の寝顔を見るのがわりと好きだというのもある。これは最近知ったことだが。

「おら起きろ、ミク坊。そろそろ時間だ。今日は早出だって言っといたろ」

 隣でまだ夢の世界を絶賛旅行中らしいミクリオをぺしっと叩くと、「……うーん……」と小さな呻き声だけが返って来た。寝息に合わせて規則正しく上下する白い胸や太ももには昨夜の痕があちこちに残っている。

「……あんまり起きねえと、もう一回襲っちまうぞ~?」

 耳元で囁いたが、ぎゅっと目を瞑っただけで起き上がる気配はない。そのかわり、寝ぼけているのか腕をするっと正面から俺の首に回してきた。
 なんとも色気たっぷりのお誘いに見えないこともないが、いつでもその腕を外せるように細心の注意を払う。この間夢うつつのミクリオからそのまま前方裸絞めを決められたのは記憶に新しい。
「ん……」
 ミクリオがまた身じろいだ。流れる水のような柔らかい銀色の髪も寝癖でくしゃくしゃだ。普段は打てば響くように利発でああ言えばこう言うこいつが、いかにもあどけなく覚醒するのを待っている様は何度見ても飽きない。
俺は白み始める前の空をちらっと一瞥した。

 ……まあ、まだ急ぐ必要はないか。

 ミクリオの薄く開いた唇にそっと口づけ、軽く歯列を舐めてから舌と舌を絡めて引きずり出す。暗く静かな室内にやたら大きく響く、くちゅくちゅという水音。ついでに胸の先端を指と指でつまんでやると、自然とミクリオの息が上がる。
「……っん!?」
 ようやくミクリオが目を開けた。
「よう。おはようさん」
「……おはよう」
 寝起きで回らない頭ながら、さすがに状況を把握したらしい。
「……何してるんだ?」
「何って、何度呼んでも起きねえからわざわざ起こしてやってんだろうが」
「普通に起こしてくれ、普通に。第一それなら胸を触る必要は――……っ!」
 語尾が浮いたのは腿から脇腹を片手で撫で上げたからだ。
「ひあっ」
「寝てるお前さんを見てたらムラムラした、って言ったら?」
 上から覆い被さるようにしてミクリオの目を覗き込むと、ミクリオの視線がすいっと斜め横を向いた。そっちは天井だが、俺の顔よりも木目の染みの方が鑑賞に堪えるとでも言うんだろうか。
「……朝から?」
「だから何だよ。朝のセックスは健康にもいいんだぜ~? 体力の漲る時間に運動を兼ねて一発やっときゃ一日快調、ストレス解消できて肌もツヤツヤだ。俺様が言うんだから間違いない」
「それが一番信用ならないんだ」
「人をすっかりその気にさせといてその言い草はねえんじゃねーの? この手は何かなぁこの手は」
 言われて慌てて腕を解こうとしたミクリオの手を掴むと、くつくつ笑いながらそのまま華奢な両手首を柔らかくベッドに押しつける。
「なあ。やりたくならねえのか?」
 耳に吹き込むように囁いて首筋に歯を立てたが、ミクリオはびくっと身体を揺らしただけだった。追い打ちをかけるように、片手でミクリオの敏感なところをわざと外して愛撫する。

 微妙に下半身が動いているところからして、やりたくない訳じゃないんだろう。こいつの天を突くほど高い自尊心と「セックスは夜するものだ」というミクリオの中の常識とやらがそう認めるのを許さないだけだ。
 だいたい目尻を赤く染め、うっすら水の膜の張ったような瞳で睨まれたところで逆に燃えるだけだとなぜ分からない。分かられても困るが。

 ちょっぴり虐めてやりたい衝動に駆られたが、ここでさんざっぱら煽って「お、やっぱりやりてーの? それなら口でお願いしてみな」とか言おうものなら張り倒された挙句丸一日拗ねられ事の次第によっては後々俺だけ夕食抜きにされる。あれは痛い。

 なので、かわりに俺の硬くなったそこを、これまたゆるく勃ち上がっているミクリオの同じところにわざとゆっくり擦りつけた。
「……! あ、つ……」
「分かるか?」
「……分かる、けど」
 唾液を飲み込む音がする。
「どう責任取ってくれんの、これ」
「だから何で僕の責任なんだ」
「あ、そう。しばらくは会えねえんだから、ちょっとくらい餞別くれたっていいと思うわけよ俺は」
 お前はそう思わねえの? と胸元にキスを落とすと、ミクリオが小さく喘ぎながら、何事か迷っている気配が伝わってきた。「自分のためじゃなくて俺のためにやるんだ」という口実を用意してやれば欲求に素直になるに違いないと思ったが、案の定だ。
 ミクリオははあっと熱い息を吐いて、今度こそしっかりと俺の肩にしがみついた。
「……昨日も同じこと言ってたけど?」
「忘れろ」


 結局二人とも本格的に起き出したのは、太陽がのそのそと顔を出してからだ。
 店の入口で忘れ物がないか最後の点検をしていると、身だしなみをきっちり整えたミクリオが2階からぱたぱた降りて来た。
「財布は持った?」
「ああ」
「仕入れメモは?」
「持った持った」
「冷え込みそうだから、風邪をひかないように気を付けてくれよ」
 母親かよお前は。
 俺はまだ人気のない通りに出たところで、一度振り返った。
「じゃあ店番は頼んだぜ」
「ああ。任せてくれ」
 いったん店の中に引っ込んだミクリオが、扉を開けて再び顔を出す。
「行ってらっしゃい」

……「行ってらっしゃい」だと。

 馴染みの御者から「ご機嫌だね旦那」と言われながら王都まで馬車でガタゴト4日間。
 花の都は、王侯貴族の庇護のもと国内全域から人や物のなだれ込む、商業と文化の中心地でもある。辺境の街といえど都からの行商人も来るには来るし、普段はそういう連中から仕入れているが、店主たるもの自分の目で食材を吟味したり世間の流行を肌身で感じたりしたいというのが本音だ。

 そんな訳で数ヶ月に一度、こうやって人のごった返す都まで遠路はるばる出かけることにしていた。チンタラ馬車なんか使わずに目的地まで飛んで行ってもいいんだが、そんなことをしたら目立つことこの上ない。
 それに、流れていく風景や暮れなずむ茜色の空を馬車の中から眺めるのは嫌いじゃない。

 一応ミクリオにもついてくるかと聞いたが、ミクリオは「僕がこの街を離れる訳にはいかない」と首を振った。律儀なあいつの言いそうなことだ。
 俺のいない間は店の看板として入れ替わり立ち替わりやってくる常連の対応をしているだろうが、さて何をしていることやら。悪戯好きの客たちがあいつに無茶振りばっかりしてないといいが。

 俺は1週間かけて都じゅうをぶらりと回り、同業の店を片っ端から覗き、旬の水菓子を味見し、酒場で旨い酒と肴に舌鼓を打ったり美女たちを適当にからかったりして過ごした。この街は右を向いても左を向いても猛烈な人の波で、ギラギラした生命力に満ち満ちている。まるでエネルギーの塊だ。
 大道芸人が自慢の芸を披露し、商人達が声を張り上げ、ちっこいガキどもが走り回り、おもちゃ箱をひっくり返したような鮮やかな色の屋根が連なる広場は、来る度軽く眩暈を起こしそうになる。

 そうだ、ついでにミクリオに土産を買ってってやろう。この間オープンした人気店の限定スイーツがいいか、それともあいつの好きそうな本がいいか。田舎街だとなかなか新しい本が入荷されないから買っていってやりたいところだが、もし好みをハズしてたらちょっとな。

 そんなことを考えながら、広場の奥にあるこじんまりした書店のドアを開けた。古い紙と埃のにおいがぶわっと流れ出してくる。

 ミクリオが普段読んでいる本と自宅の本棚にずらっと並んでいるタイトル(俺の家に本棚なんて上等なものはない。ミクリオが自分で木材を持ち込んで作ったものだ)を思い出しながら、整然と棚に収められている本の背表紙を目で追った。

 また誰かのために贈り物を選ぶ日が来るとは思わなかった。ミクリオが「買ってきてくれたのか? ありがとう」なーんて俺を見上げながら無邪気に微笑むのを想像するだけで遠出の疲れが癒されるってもんだ。
 ああ、人生って素晴らしい。人じゃねえけど。

 ところが、棚に差してある『古代から中世~信仰から見る歴史学~』に、俺と全く同時に手を伸ばした奴がいた。
「「あ」」
 青い服を着た人の好さそうな青年は、くりくりした大きな翠の目で俺を見上げると、決まり悪そうに手を引っ込めた。
「す、すみません」
「いや。……俺の方こそ」
「本、好きなんですか?」
 青年は意外そうにまじまじと俺を眺めた。まあ読書家には見えねえだろうな。
「俺じゃなくて……あー……ツレが読むな」
 ミクリオのことをなんと形容したらいいのか一瞬迷った。恋人……というのはやや気恥ずかしいし、そんな甘ったるい関係でもない。かといってダチや仲間ともちょっと違うし、従業員と呼ぶには隔たりがありすぎる。
 ツレか。まあツレかな。うんツレだ。そうしよう。
「あんたは? こんな専門的な本」
「あ、オレも読むんですけど、これはお土産にしようと思って。故郷にこういうのが好きな幼馴染がいるんです。あいつ喜ぶかなーって」
 青年は快活に答えた。腰に剣を佩いているが旅人だろうか。それにしては軽装だし、いかにも田舎から上京してきたばかりのおのぼりさんという風情だ。
 青年の言う「幼馴染」が単なる友人以上なのは、「あいつ」の言い方でなんとなく分かる。
「彼女か?」
「えっと、そんなんじゃなくて。家族みたいな感じです。長い間オレの帰りを待ってくれてて」
 照れたようにはにかむ姿は、女ならことごとく母性本能を直撃されそうだ。
 片田舎に幼馴染を残して勉学のために都に出てきた苦学生……とかか? 読書好きなことから考えても、その幼馴染とやらはさぞ知的で面倒見のいい美人なんだろう。羨ましいことだ。
 俺はすっと棚から離れた。
「悪い、買う本を間違えた。俺はあっちだな」
「え?」
「あんたの可愛い幼馴染によろしく」
 きょとんとする青年をそのままに、ふたつ隣の棚から紫色の装丁の本を引っ張り出し、愛想の欠片もない店主の爺さんの前に置いた。必ずしもあの本でなくちゃいけない訳じゃなし。

 だいたいあんな幸せいっぱいの顔で笑われたら、もう何も言えない。




 日持ちのする果物を大量に買い込み、両脇に抱えて再び馬車で帰路についた。
 整備された立派な街道がのどかな田園風景にぐんぐん変わっていく。それを眺めながら新しいメニューをあれこれ考えていると、時間が経つのはあっという間だ。

 何事もなく3日が過ぎた頃、馬車は峠に差しかかった。

 結構な悪路で御者は四苦八苦していたし、ガタガタ揺れる度に身体が跳ねるわケツを打つわで尻がよっつに割れそうだったが、幸い俺にはそれどころじゃなかった。
 時刻はちょうど日没前、空一面を火の海にしたような凄まじい色の夕焼けで、それに長いこと目を奪われていたからだ。遠くの森から聞こえる狼の遠吠え。
 と、それに混じって……人の声?
「おい、何か聞こえなかったか」
「いや? 特には。空耳じゃないですか」
 御者は額の汗を拭いながら早口で答えた。明るいうちに峠を越えて次の街に到着しておきたいんだろう。俺もそうしたいのは山々だが。
「止めろ」
 耳に全神経を集中させると、確かに誰かの声が聞こえる。二人だ。酷く切羽詰まっている。
「お客さん、そっちは何もないよ! 崖だってば!」
 俺は「すぐ戻ってくる」と言い残して馬車を飛び降りると、なだらかな丘陵を滑り降りた。

 その先、足が竦むような断崖の端で、黒い人影がうずくまったまま何やらしきりに動いている。ケツがこっちを向いているので顔は見えないが、青い背中に何となく見覚えがあった。
 こんなところで会うとは奇遇というか何というか。
「あ! 本屋さんで会った……」
「ザビーダだ。何やってんだあんた、こんなところで」
 屈んで覗き込むと、もう一人の姿が見えた。
 崖から足を滑らせたらしい四十がらみの男を、青年が必死で引き上げているのだ。男の右手を青年が両手で掴んで力いっぱい引っ張っているが、男がでっぷり肥えているのとやたら重そうな荷物を背負っているせいで、なかなか上手くいかないらしい。
 旅の商人なんだろう。男は目を剥きながらガチガチ震え、口の中で念仏だか遺言だか辞世の句だかをぶつぶつぶつぶつ繰り返している。崖下の地面は目が眩むほど遠い。怪物ででもなけりゃ、下に落ちたらあっという間にミンチの出来上がりだ。

 青年の足元で小石が割れた。真っ二つになった欠片が場違いなほど軽快な音を響かせながら数十メートル下に落下していく。
「すみません、手伝って貰えますか?」
 汗だくの青年に頼まれるまでもなく、身を乗り出して商人の腕を掴み、引っ張った。確かに重い。
「あんた、片手使えんだろ。背負ってる荷を少し捨てろ!」
 そう言うと商人は悲鳴を上げた。
「冗談じゃない! 商売道具なんです!」
「何言ってんだ、命あっての物種だろうが。こんなところで粗末にするんじゃねえよ」
 それでもまだガタガタうるせえったらない商人に舌打ちをして、落ちんばかりに前のめりになると、荷物をひったくっていくつかぽいぽいと底に落とした。これで引き上げられるはずだ。
「ああ!」
「何が『ああ!』だ。生きてりゃ何とでもなんだろ」
 青年と二人がかりで商人をようやく崖の上に引っ張り上げると、三人揃ってしばらくぜいぜいと荒い息をついた。地平線に沈む寸前の夕日が、俺達を憐れむように強烈な赤を撒き散らしている。

 商人は惜しくて仕方がないといった面持ちで荷物の落ちて行った崖下を覗き込んでいたが、やがて顔を上げると、残った荷物を抱えて「ありがとうございました」と深々頭を下げた。
 俺と青年は山道を逆方向に歩いていくそいつの背中がどんどん遠ざかっていくのを見送りながら、同じタイミングで息を吐いた。
「……あんた、道々こんなことしながら帰ってんの?」
「はい、まあ。困った人を見ると放っておけなくて」
 青年が頭を掻いた。初対面からいかにもカモられそうな奴だと思ったが、こりゃあ想像以上のお人好しだ。
 よくよく見るとシャツもズボンも泥だらけだし、さっきみたいなことをしながら野を越え山を越えここまで来たんだろう。
「あんたの故郷ってどこなん? 行く方向が同じなら、馬車に一緒に乗せてってやってもいいぜ」
「本当ですか!? ありがとうございます」
「いーってことよ。どうせついでだしな。あと敬語じゃなくていい。プレイ以外で敬語使われんの苦手なんだよ」
「は、はい。……じゃなくて、ありがとう、ザビーダ」
 青年が口にした街の名を聞いて驚いた。俺やミクリオの住んでる街だ。
 こいつと同じ年頃で教養あふれる知的美女なんか街にいただろうか。そんな女がいたら俺が目をつけてないはずがないんだが。
 俺の戻る先と同じだということを青年に告げると、不意に、青年の目に不思議な色が宿った。
「ザビーダ? じゃああなたが、純血の吸血鬼だっていう……」
「……何で知ってる?」
 青年は俺の質問に答えず、「そっか、聞き覚えがある名前だとは思ったけど」と感慨深げに呟いている。まあ、あの街の出身だったら何らかの形で伝わっていてもおかしくはない。今や街中の人間が知っているのだ。
 それにしたっていやに落ち着いてる。街を初めて訪れる人間の大半は、俺が吸血鬼だと聞くと恐れをなすのに。
「じゃあさ。ミクリオを知ってるよね」
 知らないはずはないと言わんばかりの断定口調に、俺は一瞬たじろいだ。何でそこであいつの名前が出てくる。

 ……幼馴染?

 気が付くと、すっかり辺りは暗くなっていた。街が遠くて街灯ひとつないせいで、この地域は夜が濃い。ようやっと顔を出した月はまるまると肥え太っている。今夜は満月だ。
「あんた、一体なん……」
 言っている途中で言葉を切ったのは、待たせておいたはずの馬車の姿がどこにもなかったからだ。
 やべ。俺が戻ってこないのに焦れて先に行ったんじゃねえだろうな。ここから次の街まで歩くのは別に苦じゃないが、積んでおいた荷がそのままだ。

 こういうとき夜目が利くのは本当に便利なもんで、少し捜して峠を下りきった場所に件の馬車が止まっているのを見つけた。気を利かせて難所を越えたところで待っていてくれたのかもしれない。
 こっちの勝手に付き合わせたんだから、手間賃として多少代金に色つけてやってもいいかもな。あとでミクリオが何か言うかもしれないが、事情を話せば納得するだろ。

 そう思いながら馬車に近づこうとして、ふと足を止めた。やけに興奮して暴れる馬。
 鼻をつく、真新しい血の臭い。
「……おい、どうした?」
 後ろから御者に声をかけたが返事はない。肩を掴むと妙に軽い手応えがあった。御者の身体がぐらりと揺れる。
 御者の男は返事しなかったんじゃなかった。できなかったのだ。
 頭部がなくなっている。無残にもねじり切られた首の断面からは、後から後から粘ついた血があふれてくる。こんな真似、人間業じゃできっこない。もっと別の、何か。
 御者の血をまだらに浴びた馬が怯えきったように鼻を鳴らす。

「みょーに染みついた血の臭いがすると思ったら、いけすかねえ吸血野郎がいるらしいな」

 背後で草を踏む音がした。振り返ると、俺でも見上げなきゃならないような巨体の男が6、7人、手に手に武器を持って勢揃いしていた。
 男といったがそれはあくまで(仮)だ。何しろそいつらは二足歩行の狼で、性別なんか判断しようがない。むせ返るような獣臭が体にまとわりつく。
「……人狼がこんなところでお手々つないでパーティーってか~? 迷惑なんじゃねえの、そういうの」
 内心「面倒なことになった」と思った。いつの間にか連中の縄張りに足を踏み入れていたのだ。

 人狼は普段は人の姿をしているが、満月の夜になると2倍近い体躯に膨れ上がり、人間を襲う凶暴な狼男と化す。そのせいで街を追われ職を追われ、野盗となって道行く旅人を喰い殺しては金やモノをせしめる。被害者が女なら犯す。旅行者に蛇蝎のごとく嫌われている魔物ランキングNo.1だ。
 人間の盗賊を想定して組まれた討伐隊が奴らに殲滅されて、巣の前に生首だけがずらっと掲げられていたなんて胸糞悪い話はしょっちゅう転がっている。

 おまけに人狼と吸血鬼は昔からおっそろしく仲が悪い。同じ夜を舞台に人間を狩る化け物同士、吸血鬼の方は人狼の野蛮極まりない振る舞いに眉を顰め(つったって俺達も大概だが)、人狼の方は吸血鬼の高慢な態度に文字通り噛みつく。犬猿の仲とはこのことだ。
「言っとくが俺達を襲っても金なんかないぜ」
「だろうな。しょぼい果物だの調味料だの本だの盗ってもしょうがねえモンばっかりだ。さっきのオヤジといい、今夜はシケてやがる」
 リーダー格らしい人狼がつまらなさそうにぼんと投げ出したものを見て、俺は思わず目を閉じた。……さっきの商人が大事そうに抱えていた荷物だ。あちこちが血で濡れている。

 こいつも結局助けてやれなかったのか。青年や俺のやったことは無駄骨だったのか。生きてりゃ何とでもなったのに。生きるも死ぬも身体の状態が問題なんじゃない。心のありようだ。五体満足ですこぶる健康に生きてても、死んでる奴はいる。
 でも、本当に命を失ってしまったら終わりだ。全部終わり。
「だが、金が欲しけりゃもっと大商隊を襲ってる。満月の夜はよ、血が騒いで仕方ねえ。獣の闘争本能って言やいいのか? それが疼いてよぉ。あんたらにゃ憂さ晴らしに付き合ってもらう」
「ナンパなら他を当たれよ。家でカワイ子ちゃんが待ってんだ、早く帰らねえとひっぱたかれちまう」
「安心しろ。いずれ地獄の一丁目で会えるぜ。他人の血を啜るしか能のねえゲテ野郎が無事あの世の門をくぐれるかは知らねえがな」
 リーダーの目配せで、若い人狼2人(2匹?)が剣を振りかざして飛びかかってきた。無駄に俊敏だがデカブツなだけに懐がガラ空きだ。素早く足を引っかけてやると、勢い余って地面に頭から突っ込んだ。
「悪いね〜俺様脚長くて。にしても弱い犬ほどよく吠えるってのはほんとだなぁ」
「てめえ……!」
 人狼どもが唸り声を上げた。俺自身に連中に対する偏見はないが、狼男だからと、その性分にあぐらをかいて開き直る腐れ根性が気に入らねえ。
 そういえばしばらく喧嘩はご無沙汰だ。一発ぶちのめして灸でも据えてやるか。

 青年を守りながらやり合うのはやや骨が折れそうだが、群れを統率しているリーダーがやられれば下っ端の奴らはちりぢりになるはずだ。徒党を組んで行動している人狼の習性は狼とほとんど変わらない。

 俺は、俺らの会話など耳に入っていないかのようにぼーっと立ち尽くしている青年を背中に庇おうとしたが、なぜか動こうとしなかった。
「おい!」
 恐怖に凍りついているのかと思ったが、違った。青年は竦んでなんかいなかった。地面に転がっている商人の遺品をじっと眺めていた。静かに。
 青年がぽつりと呟いた。
「……そのおじさんも殺したの?」
「だったらどうなんだ? 坊主。死ぬまでぎゃんぎゃん泣き喚いてみっともなかったぜぇあのオヤジ。てめえも同じようにし」
「そう」

 耳元でヒュッと風の吹く音。

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。殺気立っていた人狼達が彫像か何かのように静止したかと思うと、瞬く間にバタバタ崩れ落ちた。そのままピクリとも動かない。
 屈強な兵士でも手こずる人狼を、たった一撃で?
「大丈夫。殺さないように儀礼剣にしてるから」
 青年はくるりと剣を回すと、慣れた手つきでゆっくりと鞘に収めた。
「朝になれば巡視隊がここを通るから、その人達が回収してくれると思う。もともと人間社会で暮らしてたんだから、犯した罪は償ってもらうよ。魔物だから殺すっていうのは好きじゃないんだ」
 青年が気絶している人狼どものそばに膝をついた。恐れる様子はまるでない。
「縛るの手伝って貰ってもいい? ほんとはこれもオレの仕事なんだけど、一人じゃさすがに時間かかっちゃうからさ」
 そこで初めて、青年は俺の方を振り向いた。ほとんど瞳孔の開ききっていた瞳が、徐々に元の鮮やかな翠色に戻っていく。ミクリオとは真逆だ。闇の中でも猫のように煌めく目。
「あ、そうだ。さっき名乗りそびれちゃったね」

 ……ミクリオ。
 確かに凄ぇな。お前の幼馴染は。


「オレはスレイ。王都の騎士だよ」





「まあ、おかえりなさい、スレイ。立派になったわね」
「ただいま、マルシア。相変わらず元気そうでよかった」
「ええ。おかげさまで息災よ」
「よう出世頭。凱旋か? あのやんちゃなガキが騎士様たあ世の中何が起こるか分からんなぁ。俺にもあやからせてくれよ」
 スレイの帰還を聞いてわらわら湧いて出た大人達に街の入り口でもみくちゃにされながら、スレイは困ったように笑っている。
「ミクリオは?」
「ミクリオならザビーダのお店にいるわ。お花屋さんの隣、あそこの白い屋根の。知ってる?」
「うん。手紙に書いてあった」
 スレイは懐かしそうに街の大通りを見回していたが、ある一点で目を留めた。
 ちょうどミクリオが5、6歳の少女に裾を引っ張られながら店から出て来たところだ。
「ちょっとごめん」
 スレイは人をかき分けると、脇目もふらず一目散に駆け出した。勢いを増して迫り来る足音に気づいたミクリオが、ふと顔を上げた。
「ザビーダ、戻ったのか? 都はどうだっ……」
 ミクリオの目がみるみる見開かれていく。
「スレイ!?」
「ミクリオ! ただいま!」
「うわ!」
 スレイが思いっきり抱きついたせいで、受け止め損ねたミクリオもろとも二人一緒に石畳の上に転がった。
「いたた……。スレイ、本当にスレイなのか!? 帰ってくるなんて一言も書いてなかったじゃないか」
「へへっ、お前を驚かせたくてさ! 初めて休暇を貰ったんだ、またすぐ戻らなきゃいけないけど」
「そうか」
 ミクリオは泥のこびりついたスレイの背中に手を回した。
「……お帰り。スレイ」
「うん。オレもずっと会いたかった」
「でも重い」
「ミクリオは軽すぎ」
「僕が軽いんじゃなくて君が重いんだ」
「そんなことないって。……背、のびたじゃん」
「君こそ。声も体格も変わった」
「お前は相変わらず全然肉ついてないな~。ちゃんと食べてんの?」
「体質だ! ……こら! 脇腹をくすぐるんじゃない!」
 まるで飼い主にじゃれつく大型犬だ。舞い上がる砂埃にも構わず楽しげに転げ回る二人はよく似た兄弟のようで、ひたすら眩しい。血が繋がってるわけでもないだろうに。
「ちょっとおにいちゃん! わたしがミクリオとあそんでたのよ。ちゃんとじゅんばんまもって」
 さっきミクリオを引っ張っていた少女が腰に手を当てて、キッとスレイを睨んだ。
「あ。ご、ごめん」
「あやまってすむならしんぷさまもきしさまもいらないの!」
 なおも言い募ろうとする少女を、いつの間にかやって来ていた町医者がすっと抱き上げた。
「その兄ちゃんはいいんだよ」
「なによパパ、おんなはなめられたらおわりなのよ。じゃましないで」
「兄ちゃんはなあ、お前よりもずーっとずーっと先に順番待ってたんだよ。かわりにほら、パパと遊ぼ~」
「イヤよパパおさけくさーい!」
 父親に軽々と抱えられて去っていく少女に目だけで謝ると、スレイはまたミクリオに向き直った。
「オレがいない間の話、聞かせてよ」
「もちろん。その前に君、家で着替えた方がいいんじゃないか? 何か臭うし。……あ、でも」
 ミクリオが俺をちらっと見た。店のことを気にしてるんだろう。
 やりとりの一部始終を少し離れたところから眺めていた俺は、顔の前で手をひらひら振った。
「お前さんはしばらく休み。ご婦人方も坊やよりこの男前の顔が恋しいに決まってるしな。店番ご苦労さん」
 ミクリオは心外だとばかりに「誰が坊やだ」と言い返したが、すぐに表情を改め、「でも、助かるよ」とふわっと笑った。……まさか土産の件でもなんでもなく、こんなことで屈託なく礼を言われるとは。どこでどう転ぶか分からないもんだ。

 仲良く遠ざかっていく二人の背が小さくなるまで待って、俺は荷物を抱え、久しぶりに店の中に入った。客の姿はまばらだ。スレイが帰ってきたことで街は何となく浮き立っていて、そんな時にどっしり腰を据えて優雅に茶を嗜もうなんて輩はそうそういない。

 あいつ、初めて見る顔してんなぁ。

 心の中だけで呟いたつもりがうっかり口に出ていたようで、耳聡い常連がその独り言を掬い上げた。
「あらあら。あなたも見たことない顔してるわよ」
 スレイを出迎えた後、わざわざ店まで来たらしいマルシアが指定席と化した奥のテーブルにちょこんと座って微笑んでいる。
「俺が? どんな顔よ」
「そうねえ。大事な大事な宝物を引き出しに入れて鍵をかけておいたのに、開けて眺めようとしたら親御さんに取り上げられて怒るに怒れない顔」
「何だそりゃ」
「じゃあ、雨の夜に拾った子猫を育ててたのに、愛着が湧いた頃本当の飼い主が現れて連れてっちゃった〜みたいな顔」
 ますます訳が分からん。
「いつものやつかい? マダム。準備するからちょっと待ってな」
「ええ。お願いするわね」
 荷物をカウンター裏に運んで、無事だったものを棚の中へ、道中のトラブルでひしゃげて使い物にならなくなったものを床に置いた袋へさくっと選り分けて入れた。
 紫色の背表紙の本は、数秒迷った末にゴミ袋の方に突っ込んだ。どっちにしろ人狼どもが手荒に扱ったせいで表紙が傷だらけだ。そんなものを貰ったところで大して嬉しくもないだろうし。

 我ながら完璧な時間配分で丁寧にラズベリーティーを淹れて、ブドウのミルフィーユと一緒にテーブルまで持っていくと、窓の外の木洩れ日を眺めていたマルシアが礼を言って上品な仕草で紅茶に口をつけた。
「やっぱり、これがないと午後って感じがしないわねえ」
「いい女のお墨付きをいただけるとは光栄だ。惚れちまった?」
「スレイとミクリオ、仲が良いでしょう」
 唐突に話題が飛んだ。
「……想像以上にな」
「小さい頃はねえ、あんなものじゃなかったのよ。何をするにしても二人一緒で、ちょっとでも離れると泣いちゃってたの。可愛かったわ〜。今も可愛いけど。スレイが風邪で寝込むとミクリオが一晩中手を握ってあげたりしてね。その後ミクリオにもうつっちゃって、次はあの子が熱を出しちゃうんだけど。しかもスレイより高熱」
「へーえ」
「それが今じゃミクリオはあなたみたいな悪ーい大人の毒牙にかかって、スレイは遠い都で王様や国民のために毎日働いてるんだもの。神様のいたずらってあるのねえ」
「毒牙って言うなよ」

 心なしかマルシアはいつもの3割増しで楽しそうだ。そりゃあ可愛がっていたガキが立派に成長して帰って来たら嬉しいだろうが、それにしたって大の男をからかうような上機嫌な口ぶりは一体なんだ。

「そういえば。ミクリオ、お茶を淹れるのが上手くなったわ」
「そりゃ教えたのが俺様だからな。どこに出しても恥ずかしくないぜ」
「あの子ね、あなたがいない間、練習してたわよ。ずっと」
 道理で茶葉の減りが妙に早いと思った。
 ミクリオの負けず嫌いは先刻承知だ。街を守らなきゃいけないという気負いがそうさせる部分もあるんだろうが、ミクリオが俺から一方的に教えられていいようにあしらわれる立場に甘んじているはずがない。特に一緒にカウンターに立っているなら尚更。
 負けじとこっそり腕を磨こうとするミクリオの姿は容易に想像がつく。
「生真面目だからなあミク坊は」
「そうね。それだけじゃないと思うけど」
 台詞の意味を深く考え出す前に、マルシアは「ごちそうさま」とニッコリ笑ってゆっくりと席を立った。

「ミクリオをたくさん褒めてあげて頂戴ね。ザビーダ」




 翌日の夕方。店の裏庭に出ると、隅っこの方でミクリオがしゃがんで何やら熱心に土を弄っていた。

 裏庭には花壇があり、調理に使うハーブや宿根草なんかをミクリオが育てている。
 ミクリオがここに入り浸る前は俺が自分でひっそりとハーブの面倒を見ていたのだが、こいつに一度やらせてみたら見事に向いていたのでそのまま引き継いだのだ。するといつの間にか花壇がじわじわ庭を侵食していた。隣の花屋が種だの苗だのをぼんぼん気前よく寄越すせいだ。

 お陰で一年中何がしかの花が満開で、春になると蜂や蝶が飛びまくるわそれ目当ての小鳥が寄ってきて戯れるわそこだけ異様にメルヘンだ。
「何してんだお前。スレイはどこ行った」
「お墓を作ってるんだ。スレイは町長の家に引っ張っていかれた。都の話が聞きたいって」
「墓?」
 花壇の隣にこんもりと小さく土が盛られており、その上から覗き込むように真っ赤な花が垂れている。
「君たちが会った商人のだよ。墓がないのは可哀想だってスレイが。綺麗な花の咲くところがいいんじゃないかって言うからここにしたんだけど、ダメだったかな」
 「ああ」とだけ口に出した。スレイが商人の遺品を街まで持って帰ろうとした時にはこいつ正気かと思ったが、言い分を聞いて納得した。

 御者のおじさんの死体はさ、巡視隊の人たちが家族のところまで届けてくれると思う。ギルドに所属してるから身元もはっきりしてるだろうしね。
 でもこの人は違う。体はもう見つからないし、荷物をあらためてみたら隣の国から国境を越えてきてるみたいだったし。だからせめて、オレの街で弔ってあげたいんだ。

 最期に誰にも見送ってもらえないなんて、寂しいよ。


 散ればそれでおしまいだ。地獄だか天国だか浄土だか輪廻の輪だか知らないが死んだ後の行く先が決まっていたとして、その前にどれだけ悼んで貰えたかなんて死者には髪の毛一本ほども関係ない。野辺送りは残された連中が死んだ奴を忘れないようにするもので、つまるところ生者のためだ。
 俺はそう思ったが、口にはしなかった。それは俺の考え方で、スレイにはスレイの譲れねえもんがあるんだろう。そういう奴に見える。

 墓地を管理している教会に遺品を届けなかったスレイの判断は正しい。ただでさえスペースは限られてるのに、身元もよく分からない、身寄りもない、そもそもこの街の住民じゃない、ないないづくしのホトケを手厚く弔ってやるほど聖職者は慈愛の精神に満ちていない。
 それでもきちんとした墓を作りたきゃ、それなりの心付けを渡さなきゃいけないはずだ。この国じゃ、人ひとり葬るのにも金が要る。
 だからってうちの庭に遺品を埋めるとは思わなかったが。

「お前な。ダメも何ももう埋めちまってんじゃねーか。だいたい俺がするなっつってもどうせ聞かねえだろ」
「まあね。それにザビーダなら『いい』って言ってくれるんじゃないかと思って」
 ったく、すぐこれだ。俺は思わず額に手を当てた。まあねじゃねーよ、勝手に決めやがってアホらしい。一番アホらしいのはミクリオの言う通りだってことだが。
 ああ、どうせ谷より深く海より広い心の持ち主だよ俺様は。
 人が己の寛大さを嘆いているってのに、ミクリオは俺に見向きもしないで作業を進めると、柔らかい土の山の頂上に小さな花の苗を植えた。
「どうかな。これじゃお墓のかわりにもならないかもしれないけど」
「……いや。立派な墓だ」
「ありがとう」
 商人が花を愛でるような風流な男だったかは知らないが、誰にも顧みられないまま野ざらしにされて朽ちていくよりは、スズランやゼラニウムの咲き乱れる庭でミクリオに水をやられている方がマシだろう。多分。きっと。
「スレイはいい奴だな」
「危なっかしいけどね。……君にそう言ってもらえると嬉しいよ」
 ミクリオはパンパンと手についた泥を払うと、立ち上がって俺の隣に並んだ。
「スレイに言った?」
 目的語はなかったが、ミクリオの言わんとするところは分かった。
「言ってねえよ。お前さんのことだ、俺が勝手に言えるはずねえだろ。でも、黙ってもおけない」
「……ああ。よく分かってる」
 スレイは俺が吸血鬼だと知っていたが、ミクリオもそうだということまでは知らないようだった。まあ、言えねえだろうな。久しぶりに会った家族同然の幼馴染が人間やめてました! なんて、俺がスレイと同じ立場だったら卒倒する。

 だからと言って、言わずには済まされない。どうせいつかは分かることだ。街の連中は俺とミクリオが吸血鬼だということを知っているし、また10年後に再会したとして、ミクリオの容姿が全く変わっていなければさすがにスレイも気づく。時間が経ってから気づく方がショックははるかにでかい。

 それを十分弁えているからこそ、ミクリオはタイミングを計っているのだ。
 どうすればスレイを傷つけずに伝えられるか。どう言えばスレイの負担にならなくて済むか。
「……言いにくけりゃ、俺から言ってやろうか。お前を眷属にしたのは俺だ」
 ミクリオが深く息を吐いた。
「いや。今夜、僕から話すよ。自分の面倒は自分で見る。それにこれは僕とスレイの問題だ、君は巻き込めない」
「水くさいじゃねえの。お前さんの問題は俺の問題だ。よってお前とスレイと俺の問題だ」
 ミクリオのジト目が飛んできたが、俺はしれっと受け流した。
「……いつから君と僕は切っても切れない関係になったんだ?」
「あれ~? そう思ってたのは俺だけだったん?」
「『ツレ』じゃなかったのか」
「ぶっ」
 さてはスレイの奴、言いやがったな!
「君がそんなこと思ってたなんて初耳だ」
「そりゃそうだ。言ってねえもんな」
 急にミクリオがくすくす笑い出した。
「……何だよ」
「ツレか。確かにツレかもね。たまたま会ってたまたま今一緒にいて、これからもたまたま同じ時間を過ごすのかもしれない」
 ミクリオはまだ笑っている。何がおかしいんだ。
「何で君なんだろう」
 ミクリオがやっと笑うのをやめて、首を傾げた。俺ではなく、屋根の上の夕日を真っ直ぐ見ている。
「何で君なんだろう。君は不真面目だしすぐはぐらかすし人が真剣に話してるのにいつまで経っても子ども扱いしてくるし、やっぱり不真面目だし」
「言いたい放題じゃねえか」
「その分、何を考えているのか分からないことも凄く多いから。スレイのことは分かるよ。大体分かる。でもザビーダは本当に分からない。だから、一端を知ることができて良かった」
 花壇の花が風でゆらゆら揺れている。庭どころか街全体が夕焼けの橙色に塗り潰されて、はっとするほどの絶景だ。

 彼女の時のような燃え上がる恋って訳じゃない。お互い我を忘れるような、激 流のような、言葉を交わしただけで体が浮くようななりふり構わないものじゃない。

 ミクリオは折り合いをつけるのに慣れている。そのせいか、それとも人生経験が足りないせいか、俺の内面を必要以上に探ろうとしない。やらないんじゃなくてできないんだろう。それをそつなくやれるほどの如才なさも強引さもミクリオにはまだ、ない。
 たまに好奇心に任せて踏み込みすぎることはあっても、すぐにそうと察して引いた。
 頭のいい奴だ、物凄く。肝も据わってる。

 ミクリオが聞かなければ俺も何も言わないので、つかず離れず、互いに手探りのままゆっくりゆっくり進むんだと思ってた。それでよかった。

 だが、ミクリオは俺の知らないところで、ふとした瞬間に零れ落ちる欠片を懸命に拾い集めようとしていたのかもしれない。俺のことを少しずつ、ほんの少しずつ知ろうとしていたのかもしれない。なんて不器用で、いじらしいんだろう。
 そう思うと、何だかこいつがたまらなく愛おしくなった。
「ミクリオ」
 名前で呼ぶと、ミクリオが首を巡らせて俺を見上げた。
「何?」
「喰っていい?」
「こ、ここで? だ」
 め、まで言い切る前に腰を強く抱き寄せて唇を奪った。毎回思うが本当にほっせぇなこいつ。手にちょっと力を込めただけで折れちまいそうだし、今みたいに奥深くまで舌を絡めるキスをすると、こいつの全部を丸ごと喰らい尽くしてしまえそうな錯覚を覚える。
「……ふ……ぁ……っ」
 咄嗟に逃れようとする頭を押さえ込んで、じりじり裏口のドアの前にまで追い詰めた。ドンとミクリオの背中が当たり、それ以上逃げ場を失った体に自分の胸をぴったりと密着させる。熱すぎるくらい熱い口内で舌を吸うと、足の先まで痺れるような甘さ。

 凄えな。キスだけでイキそ。

「……はっ……」
 思う存分その熱を堪能してから唇を離すと、力の抜けたらしいミクリオが腕の中で崩れ落ちかけた。地面に尻餅をつく前に支えると、大きく荒い息をつく。
「……やめてくれ……心臓が止まる……」
「こんなことじゃ止まらねえから安心しろ。気持ち良かっただろ? 続きやるか? 夜まで時間あんだろ」
 気持ち良かったかどうかなんて聞かなくてもミクリオの様子を見れば一目瞭然だが、俺は喉の奥で笑いながらわざと尋ねた。返ってきたのは沈黙だ。肯定はしないが否定もしないところがミクリオらしい。
「……いやだ。スレイがいつ戻って来るかも分からないのに」
「たまにはそういうスリルがあった方が燃えんじゃね?」
 ミクリオの腕を掴んでもう一度引っ張り上げると、頭をドアに押し付けてそっと耳打ちする。
「知り合いに見られるかもしれない外で、とか。お互い服を着たまま性急に、とか。たまにはキレイじゃないセックスもいいもんだぜ、坊や」
 さらさらした髪に指を絡めて引き寄せる。今度こそ容赦なく噛まれると思ったんだろう。ミクリオがぎゅっと目を瞑った。
「なんてな。ジョーダンだよ、ジョーダン」
 ぱっと腕を離すと、ミクリオは目を閉じたまま「は?」と間の抜けた声を漏らした。
「あ、もしかして期待しちゃった? はは、やらしいねぇミク坊は~まぁ後日たっぷりと」
 からかわれたと気づいて真っ赤になったミクリオの左ストレートを軽く躱し(不意打ちでなければなんてことはない)、3歩ほど後ろに飛びすさった。
「冗談は時と場所と場合を考えろ! 本当に意味が分からないな君は!!」
「怒ると血圧上がるぞ」
「誰のせいだ!」
 怒り心頭のミクリオの頭をぽんと叩くと、腕一本で制されたうえ見下ろされているのが気に入らないのか、むくれたまま手をはたき落とされ、そっぽを向かれた。

 ああ。俺は帰って来たんだな。

 ミクリオの顔をまじまじ見ていると、急にそんな実感がすとんと落ちてきた。
 帰って来たんだ。俺にも帰る場所があるんだ。
「なに人の顔見てニヤニヤしてるんだ。さっきから失礼だな」
「べっつに〜?」

 あとは。





 その夜、俺達3人はスレイの家に集まった。
 長らく空けていたにもかかわらず綺麗に整頓されているのは、ミクリオが時々やってきては掃除していたからだ。いつスレイが帰ってきてもいいように。定期的に手入れしないと、ただでさえ空き家は浮浪者の溜まり場になる。
「ミクリオ、料理作るの上手くなったじゃん!」
 ウキウキとしたスレイの台詞は通算3回目だ。じゃがいもの皮を剥くスレイの隣で、パンプキンスープの味見をしていたミクリオが自慢げに返した。
「当たり前だろ。一人暮らしだったんだから毎日料理ぐらいするさ」
「そっかー。子どもの頃はすぐ火加減間違えて焦がしちゃったりしてたのにな。ほら、初めてシチューを作った時も鍋が大変なことに」
「そんな昔のことはいいだろ! だいたいあれは君が」

 ……ほんっと仲のよろしいことで。

 台所でわいわいやっている青少年二人の背を見守っていた俺は、ダイニングテーブルに頬杖をついたまま持参した酒をちびちび流し込んだ。

 スレイは俺の言ったツレ=ミクリオだとはまだ認識していない。認識していたら一言くらい言及するはずだ。したがって俺は「ミクリオが住み込みで働いている店の主」として二人の晩餐のお招きに与った形になる。
 もうどこから見てもお邪魔虫なんだが、ミクリオがスレイにあの話をする以上、席を外すのもいただけない。

 ミクリオから直接聞いた訳じゃないが、食卓を囲んである程度親睦が深まったところで、それとなく切り出すつもりなんだろう。昔から、大事な話をするのは食事時と相場が決まってる。

「はい、お待たせー!」
 ドンとテーブルの上に置かれた出来立ての料理は、ほこほこと湯気が立ち上っていかにも美味そうだ。新鮮な野菜のポトフにスープ。サラダ、ローストチキン、手作りのパン。
「あんた、料理得意なんだな」
「得意かは分からないけど、作るのは好きかな。騎士団でもみんなに料理を振舞ったりするよ。……ミクリオ! こっち、準備できたけどそっちはどう?」「僕もあとは果物を切るだけだよ。ちょっと待ってくれ」
 テーブルの上の燭台に火が灯る。まさに絵に描いたような暖かな団欒が始まろうとしていた時、それは起こった。
「いっ……!」
 果物を切っていたミクリオが小さく声を上げた。
「ミクリオ! どうしたの?」
 スレイがすぐさまミクリオのところに飛んでいく。
「あ、だ、大丈夫。ナイフで指を切っただけだから」
 明らかに動揺しているミクリオを不審に思ったのか、スレイは「見せてみろって」と強引にミクリオの手を取った。ミクリオが咄嗟にスレイの手を振り払って指の傷を隠したが、間に合わなかった。
「それ……どういうこと……?」
 ぷっくりと血の球の浮いた切り傷があっという間に塞がっていくのを、スレイは呆然と見守っていた。スレイがゆっくりと後ずさる。1歩、2歩。
「スレイ、落ち着いて聞いてくれ。これは……」
 スレイが凄い勢いで俺の方を向いた。瞳孔が開きかけている。
「スレイ!!!!」
 俺の胸倉を掴んだスレイを、ミクリオが強く引っ張った。それでも抑えきれずに、座っていた椅子がガタンと音を立てて後ろへ倒れる。
「違う! ザビーダのせいじゃない。僕が望んだことだ」
「望んだって何?」
 スレイは俺から目を離さない。底冷えするような視線が突き刺さって、肉まで抉られそうだ。
「さっきの、吸血鬼の特性だよね? 噛まれたってことだろ? 何で? 何でお前がそうなってんの?」
「……事情があるんだ」
 ミクリオがもう一度、スレイを宥めるように引っ張った。
「俺は煮るなり焼くなり殴るなり好きにしてくれて構わねえけどよ。そいつの話、聞いてからにしてやってくんねーかな。騎士殿」
 そこまで言うと、スレイはようやく手を放してどすんと椅子に座り込んだ。

 蝋燭のちっぽけな火がちりちり空間を焦がしていく。
 ミクリオの話が終わった後も、スレイはしばらく黙り込んでいた。当然だ。すぐに消化しろというのはいくら何でも酷な話だ。
「……分かった」
 もう一生口を開かないんじゃないかと思い始めた頃になって、ようやく絞り出された声音は、いっそ聞き流したいほどの低音だ。本人は無意識だろうが、テーブルをトントンと指で叩く仕草に苛立ちが滲んでいる。
「でもオレに隠してた理由にはなってない」
「隠してなんかない。機会を見て言うつもりだったんだ」
「隠してるじゃん。そんな大事なこと、一言も手紙に書いてなかっただろ、お前」
「修行中なんだろ。そんなこと書いたら、君が余計な心配するじゃないか」
「余計?」
 スレイが目を見開いた。
「お前が死にかけたことも、吸血鬼になったことも、ザビーダと付き合ってることもオレにとっては余計なことなんかじゃない。お前こそいらない気を回しすぎだよ」
「な……」
 ミクリオがさっと青ざめたと思ったら、今度はみるみるうちに耳まで赤くなった。
「なに、その反応。オレにバレないと思ってたの? やっぱり隠すつもりだったってことだろ」
「それは……その……。そ、そのことは僕の個人的な話だろ。スレイには関係ない」
「あるよ。大ありじゃん。オレを信用してないの? お前、もしオレが誰かと付き合ってたとして、そのことを黙ってたら気分悪くならない? お前のやったことはそういうことだろ」
「何でもかんでも言えばいいってものじゃないだろ!」
 ……えー。こりゃまずいな。
 売り言葉に買い言葉でどんどんどんどんヒートアップしていく二人の口論を止めようか逡巡した時、ミクリオがバンとテーブルを叩いた。
「もういい」
「ミクリオ! 待っ……」
 目の前で扉が轟音を立てて閉まると、ドアノブのあたりを睨んでいたスレイはそのままゴチンとテーブルに突っ伏した。何の罪もないスープが衝撃で跳ね、新調したテーブルクロスに染みがつく。
「……あー……もー……。喧嘩するために帰ってきた訳じゃないのに……」
スレイが突っ伏したまま呻いた。スレイの台詞はミクリオじゃなく、自分自身 の不甲斐なさに向けられたものだろう。せっかく二人で作った料理も、とっくのとうに冷めてしまっている。

 俺はというと、ミクリオが憤然と出て行ったがために、結果的にスレイと二人っきりで部屋に残されることになってしまった。控え目に言っても大層居心地が悪いんだが、そのまま動かなくなったスレイを放っておく訳にもいかない。壁に凭れたまま、渋々「……追いかけなくていいのか?」と声を掛けた。
 少なくとも、この場面でそれを許されているのは俺じゃない。

 スレイは顔をテーブルにくっつけたまま俺の方を向き、「まだいたのか」という目をした。
 まあ忘れられててもしょうがねえけど。二人が喧嘩してる間口も手も出さずに柱と化していた俺をちょっとは労ってもらいたい。
「……今行っても、また喧嘩になるだけだと思う。しばらくしたら頭が冷えて戻ってくるから大丈夫だよ」
「まあ、そうかもな」
「あいつ、昔っから全然変わってない」
 スレイは深々と溜息をつき、自分の髪をぐしゃぐしゃかき回した。
「それに、ミクリオはなんでオレが怒ってるのか分かってない。全っ然分かってないんだ」
 俺は何も言わなかった。スレイは俺に話しかけている訳じゃない。体内で淀んでとめどなく渦巻いている本音を吐き出したいだけだ。幼いガキが物言わぬぬいぐるみ相手に愚痴るのと同じ理屈だ。
 要するに俺はまだ部屋の柱になってろってことだな。
「あいつがオレに黙ってたのも分かる。分かるよ。分かるけど……」
 髪をかき回していた手が止まった。窓の外から虫の鳴く声がする。あまりの静けさに、俺はついつい柱になるのをやめて、聞きたかったことを聞いてしまった。
「あいつを置いてったことを後悔してんのか」
「してない」
 スレイは間髪入れずに答えた。何の迷いもなかった。俺が驚いてスレイの目を思わず二度見するほどに。
「……オレがこの道を選んだのは、元々ミクリオがきっかけなんだよ。あいつは知らないと思うけど」

 スレイがふっと肩の力を抜いた。もうすっかり落ち着いていて、瞳の奥も凪いでいる。さっきまで取り乱していたのが嘘のようだ。

「10歳の時に、ミクリオが人狼に攫われたことがあったんだ。もうその時にはオレもミクリオも両親がいなかったから、よく面倒見てくれてたおじさんやおばさんがちょっとずつお金を出して、自警団にミクリオを取り返してくれって頼んだんだけど。オレもそこそこ剣は使えたから、『連れてってくれ』ってせがんでせがんで追い払われて、結局後からこっそりついてった」

 初めて聞く話だ。……まあミクリオが自分からそんなこと言うはずもないが。

「でも、オレは全然歯が立たなかった。それどころか瀕死の重傷を負って、目を覚ました時にはあいつがベッドの傍でずっと泣きじゃくってた。あいつもボロボロになってて、自分だって怖くて痛かったのは間違いないと思う。なのに、一言もそんなこと言わなかった。ただ、ずっと『良かった』って」

 俺は音を立てないよう壁から身を起こし、スレイの隣の椅子に座ると酒を一杯注ぎ、無言で勧めた。騎士団なら飲み慣れてるだろう。スレイはちょっと笑ってそれを受け取った。

「その時、オレはなんて無力なんだろうって思ったんだ。一番守りたい時に守りたい人を守れない、そんなので剣なんか振るってる意味があるのかって。だから、誰かを守りたいと思ったらちゃんと守ってやれるくらい強くなろうって決めた。……騎士にならないかって誘いを受けたのは、それがあったからなんだ」

 スレイの、壁を突き破って遥か遠くを望むような目と話し方は誰かに似ている。
 ああ、そうだ。ミクリオだ。ミクリオがスレイのことを語る時にそっくりだ。
 そうか。ふたりとも、同じところを見ていたのか。
 全く別々の場所で、同じところを。

「ミクリオは『行ってらっしゃい。後のことは僕に任せて』ってオレの背中を押してくれた。だから、オレは絶対後悔したくない。オレがそう思うことは、あいつを裏切ることになる」
 不意にスレイが言葉を切り、俺を見上げた。
「だからさ、ザビーダには感謝してるよ。……あと、これ、ミクリオには言わないでね」
「言わねえよ。俺とあんたの約束だ」
 スレイはあれよあれよという間にコップを空にした。顔色も変わらない。スレイに2杯目を注いでやってから自分の分を手酌しようとすると、遮られて酌をされた。
 ……こんな風に人と酒を飲むのは何だか新鮮だ。ミクリオは呑んでもすぐ酔っ払ってぶっ潰れるから。
「もうひとつ聞いていいか」
「何」
「俺とミク坊の関係にいつ気づいたわけ?」
「ああ、あれ? 確信があった訳じゃないけど、そうかなぁと思って言ってみただけだよ。ほら、あいつ嘘つけないからさ」
「あ、そ」
 なるほど、ミクリオはカマをかけられて見事に引っかかった訳だ。人畜無害そうな顔して大したタマだな。
「それに、手紙が途中からザビーダの話ばっかりになってたし」
 ミクリオがせっせと手紙を書いているのを横目で見たことはあるが、その中身を覗いたことは一度もない。他人のプライバシーにずかずか土足で踏み込むような不作法は御免だ。
「へえ。何て書いてあったんだ?」
「秘密。オレからも聞いていい?」
 スレイがこっちに向かって身を乗り出した。
「……いいぜ。俺が答えられるもんなら何なりと」
「ザビーダはミクリオが好きなんだよね?」
「まあな」
「どの辺が?」
「どの辺がって……。ま、全部なんじゃねえの」
「具体的には?」
 詰めてくるなこいつ。
「それ聞いてどうすんの?」
「別にどうもしないよ。聞きたいだけ」
 俺は少し考えて、テーブルをコンと叩いた。
「さあな。いつの間にか気になって、いつの間にか一緒にいた。そんなもんだろ」
 スレイは分かったような分からないような顔をした。期待した答えではなかったのかもしれないし、実感が湧かなかったのかもしれない。あるいは誤魔化したようにでも聞こえたか。

 どの辺がって言われてもな。俺はまだ半分中身の残ったコップを何となく揺らした。
 思いつく限りを洗いざらい挙げてみたとしても、完璧に腑に落ちるものはない。遡って考えたところで、どこで、何がきっかけで好きになったのかなんて言えそうもない。まあ言おうと思えば言えるだろうが、それでスレイが納得するかどうか。何より俺が納得するか。

 ……恋愛してて、相手に惚れた理由を一から十まで説明できる奴なんか本当にいるんだろうか。あの、気が付いたら流れに絡め取られて引きずり込まれるような引力の正体を。
 あいつは「たまたま」だと言った。そうかもしれない。たまたま、偶然、思いがけず出会ってしまって、他の奴にはない何かを探しながらお互い糸を撚り合わせているうちに、一本の絆になるのかもしれない。

「じゃあさ」
 スレイがもう何杯目か分からない酒をあおった。さっきから薄々思ってたがとんでもねえザルだ。こんなことなら、あと2、3本秘蔵の銘酒を引っ張り出してくるんだった。
「じゃあ、何で、あいつなの。他の人でもよかったんじゃないの。もしオレが全力で反対したらどうするの」
 スレイの口調はごくごく軽く、街の連中との呑み会でよくやる恋バナの延長のようだ。
 「何でだろうなぁ」とか「お前が反対しようがしまいが関係ねぇだろ身内ヅラすんな」とかいくらでも適当に流せたが、そうするには、淡い光に照らされたスレイの眼差しはあまりにも真剣すぎた。

 裏庭で交わしたキスと、ミクリオの言葉を思い出した。何で君なんだろう? 俺の台詞だ。
 何でお前なんだろう。生まれてからこっち、知り合った人間の数は少なくないはずなのに、何でよりにもよってお前なんだろう。一番のめり込むのに向かない相手だ。たどたどしく、ぶきっちょで、しかも俺以外の誰かから心が離れない。
 ミクリオは永久にスレイの味方だし、スレイだってそうだろう。家族だからだ。血が繋がっていなくても、離れていても、確かに家族で、親友だから。

 マルシアは俺が妬いているとでも思ったんだろうが、生憎嫉妬なんか微塵もない。そんな気持ちが消し飛ぶほど、ふたりの間に存在するものは、きっぱりとした荘厳な事実のように思えた。
 俺は未来永劫スレイに勝てない。勝てっこない。
 それを知っててあいつを好きになったのは俺だ。スレイとの約束を大切に想うあいつだ。後戻りなんかできない。する気もねえけど。

 その証拠に、もう、あいつのいない生活なんて考えられそうもない。一人の時間の方が途方もなく長かったのに、きっかけすら口にできないってのに。詐欺だ。

「あいつじゃなきゃダメなの。理屈じゃねえのよ、こういうのは」
「ふーん」
 ふーんてお前。
「仮に、万が一、あんたが俺なんかやめとけってあいつを強引にひっぺがしたとしてもだ。毎日でも通いつめて、あんたの考え変えてやると思うぜ」
「どうやって?」
「まあ、手始めに一緒に酒を飲むな。とっておきの奴を持ってきて」
 俺は一滴も残っていないすっからかんの酒瓶を軽く振って、テーブルの端に置いた。手近に流しこめるものはもうない。あとは吐き出すだけ。
 それにしたってずいぶん前から吐き散らしてるような気はするが。……酔いが回ったか。俺としたことが。
 スレイは何か考える素振りを見せていたが、軽い音とともに空のコップを置き、「うん。分かった」とにかっと笑った。
「あんまりミクリオを無理させないでね。あいつ時々凄い無茶するから」
「ああ。分かってるさ」
「傷つけたりしたら覚悟しといて」
「勿論」
「それからあと」
 まだあんのかよ。
「……俺に感謝してるって言わなかったか?」
「それとこれとは別」
 玄関の方で、微かな音がした。耳を澄まさないと聞こえないくらいの小さな小さな音。
「秘密って言ったけどさ。ひとつだけ教えてあげる」
 スレイが立ち上がり、ドアノブを捻る前に、俺の方を振り返った。
「ミクリオ、手紙に『幸せだ』って書いてたよ」
「そ。じゃあ俺もひとつだけ教えてやるよ。あいつはあんたのことを話してる時が、一番綺麗だぜ」





「じゃあまた。わざわざ見送ってくれてありがとう、みんな」

 街の入り口で、十数人の住民がひしめき合いながらスレイを囲んでいる。雲一つない空は突き抜けるような青で、絶好の旅日和だ。
「えー本日はお日柄もよく、我らが街の誉れであるスレイの出立に際しまして挨拶の指名を賜り……」
 一歩前に出て延々弁舌を振るっていた男の頭を、他の血気盛んなオヤジどもがわっと寄ってたかって押さえこんだ。
「長ぇし堅ぇんだバカ。こういうのは気持ちなんだよ、気持ち! じゃあなスレイ!」
「元気でね」
「いつでも帰って来いよ」
「次は酔い潰してやるぞ!」
「最後に頭を触らせて。ご利益ご利益」
「お前モデルの剣を打ってやったからな、騎士様公認ってことにしてがっぽがっぽ儲けてやるぜ!」
「ははは……」
 口々に好き勝手なことをのたまう呑気な大人達の前で頬をかくと、スレイは群衆の中にいた俺とミクリオに向かって手を振り、駆け寄ってきた。
「スレイ。……気をつけて」
「お前も。無茶ばっかりするなよ」
「こっちの台詞だ」
 スレイはミクリオの肩を叩くと、すっと視線を俺に流した。
「じゃーなスレイ。元気で。崖から落っこちたりすんじゃねえぞ」
「うん。ザビーダも」
 差し出されたスレイの手を固く握った。お互いそれ以上何も言わなかったが、じんわり熱い掌が離れた瞬間、俺にははっきりと分かった。

 スレイから、言葉ではない何かを託されたこと。
 それは俺にしかできないということ。

 スレイは街の人間達に向かって軽く会釈をすると、都への道を歩き出した。その背中が青い点になって青空に溶け、集まっていた人々が一人減り二人減り、最終的に誰もいなくなっても、俺達はその場に突っ立っていた。
 ミクリオは何も言わない。消えていったスレイの背を目に焼き付けるかのように、頑なに視線を外さない。風が吹き、俺とミクリオの間に枯れ葉が1枚落ちた。
 ……寂しいか。
「行くか」
「……うん」
 ミクリオが、名残惜しさを断ち切るように首を振った。その頭をいつもよりしっかり撫でて(珍しく嫌がらなかった)、家までの道をふたりでゆっくり歩いた。
 何か声をかけてやりたかったが、月並みなことなら言わない方が断然マシだ。
 言葉は万能じゃない。伝えきれることも、多くはない。
 それでも。
「そういや、お前に食ってみて欲しいおやつがあんだよ。向こうに行ってた時に考えたやつ。美味いぜ〜100点満点だ」
「自分で言うなよ。……どんなの?」
「黒豆とイチジクとレモンの輪切り三段のせチーズタルト」
「……あまり……美味しそうには聞こえないんだが……」
「ちっちっち。分かってねぇなミク坊。一見合いそうにねえもんを組み合わせた時に化学反応が起きんだよ」
「そうか……?」
「そうそう。失敗は成功の愛人って言うしな」
「それを言うなら母だしやっぱり失敗してるんじゃないか!」
 声を上げて笑うと、ミクリオがふと立ち止まった。長く伸びる影。
「ありがとう」
 ……それでも。
「何のことだよ」
「何でも」
 こいつが望むようにしてやりたい。見たいものを見せてやりたいし、行きたいところに行かせてやりたいし、知りたいことは教えてやりたい。もしも言えない言葉があるなら、引きずり出してやったっていい。
 どうせ来た道が長けりゃ行く道も長いんだ。遠回りだろうが何だろうがいくらでも付き合ってやる。

 こいつと一緒なら、地獄の果てが終の住処になったって悪くない。

「……とりあえず、あれのお礼。面白かったよ、凄く」
「あれ? 何だ、あれって」
「君も読んでみるといい。気が向いたらね」
 全く心当たりがない。悪戯っぽく唇を綻ばせたミクリオが、本気できょとんとしている俺の脇腹のあたりを、拳でトンと押した。
 
 2時間後、本棚を見て俺はようやく気付く。
 スレイの買ってきた本と、丁寧に丁寧に汚れを拭き取られた紫色の表紙の本が、一緒に並べられていることに。

end

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