top of page

 スレイの家を掃除していたら古ぼけたノートが出てきた。

 僕はご丁寧に本棚の本と本の間に突っ込まれていたそれの埃をせっせと払い、床に膝をついて、懐かしい表紙をまじまじ見つめた。

 新しい導師との旅に出る前にスレイの家を片付けるのは、もう恒例行事のようなものだ。いつ何時スレイがひょっこり帰ってきてもいいように、床を掃き、窓を拭き、本を整理し、照明を替える。別にやるのは僕じゃなくてもいいんだけど、杜の仲間達は全員示し合わせたかのように手をつけないでおいてくれる。その権利を譲ってくれているのだ。家主がいてもいなくても、塵と思い出はしずしずと降り積もる。

 

 伸び始めた髪を何となくかき上げてから、ノートを開いた。覚えてる。昔スレイと書いていた交換日記だ。いつの間にか行方不明になってしまっていたけど、こんなところにあったのか。

 日記の書き方はいかにも子どもらしく統一性がない。押し花が挟んであるだけのところもあるし、スレイがとんでもない色彩センスを発揮して生まれたばかりのハイランドゴートの赤ちゃんを描いているところもある(なぜか赤ちゃんが虹色で塗られている。会心の作というか怪作というか)。

 僕は思わず頰を緩ませたり、その頃の失敗が頭に浮かんで赤面したりと百面相になっていた。誰も見てなくてよかった。日記の最後に、お互いたどたどしい古代語の綴りでサインが残されている。

 

 ……そうそう、コードネームを作ってたんだっけ。スレイが「ミクリオにだけ真名があるのはズルい」って言ったんだ。

 

 真名にズルいもズルくないもないけど、当時の小さかった自分はスレイの我が儘をすんなり受け入れた。

 スレイの我が儘は今に始まったことじゃないし、コードネームなんて冒険小説の登場人物になったみたいで凄くワクワクしたからだ。だから「スレイ」でも「ミクリオ」でも「ルズローシヴ=レレイ」でもない、ふたりだけでつけた名前でひっそり日記を交換し合った。誰かに決められたものじゃない、僕らだけの名前。

 スレイには僕が古代語で「雷様」と名づけた。僕らにとって一番なりたい大人の象徴はジイジで、ジイジといえば雷だろうということになったからだ。

 僕のコードネームはスレイがつけたけれど、こともあろうに毎年春に顔を出す花の名前だった。花なんて女の子みたいで嫌だ、もっとかっこいい名前がいい! と力いっぱい主張したけど、スレイはそう? と零れ落ちそうな大きな瞳をぱちぱちさせて首を傾げていたのを思い出す。だってオレ、この花大好きなんだもん。ミクリオの目みたいで、ずっと見てたくなる。だめ?

 ……何が「だめ?」だ。スレイはいつだってそうだ。僕が何も言えなくなるのを知ってて尋ねるんだ。確信犯め。

 

 それにしても、何で交換日記が止まったんだっけ? スレイが持っているということは、スレイが止めたはずだ。

 ぱらぱらめくっているうちに、最後のページに到達した。

 

 「きゅうにこんなことを書くとびっくりするだろうけど」

 

 全く突然思いがけず目に飛び込んできた言葉に、ぎょっとしてついノートを閉じかけた。

 それまでの日記とは明らかに違う改まった口調と、何度も何度も書いては消した形跡のあるその文章は、僕の心をざわつかせるのに十分だった。人を驚かせるのが生きがいとしか思えないスレイの言動にはもう慣れっこのつもりでいたけど、この期に及んでまだ僕の心臓を転がす気か。

 きゅうにこんなことを書くとびっくりするだろうけど、オレはお前が好きなんだと思う。

 この間オレが熱をだした時、ずっとそばにいてくれたよな。気持ちわるさより、お前の泣きそうな顔がずっと残ってて、いせきの高いとこから落っこちた時よりも胸が痛くて、ぜったいお前を泣かしちゃいけないって思ったんだ。それが最近で一番の発見だったから、真っ先にお前に伝えたかった。

 お前はどうかな。オレのことをちょっとでも、他のみんなとはちがうふうに好きだったりするのかな。

 

 ……スレイは結局、「だめ?」と聞いて僕の退路を塞ぐこともなかったし、これを僕に渡すこともなかった。

 僕はペンを取り出すと、スレイの最後の日記に一言だけ書き添えて、そっと本棚に戻した。子どもの頃の下手くそな字が並んだページの中で、それは魔法みたいに浮いて見えた。

 スレイが戻ってきたら、このノートを取り出して読むだろうか。それとも棚の奥に眠ったままになるだろうか。あるいは。

 外から仲間達が呼ぶ声がした。

 窓から見える青く澄んだ空に、遅く咲いた菫の花びらと、届けたい言の葉が一緒くたになって舞い上がる。

 またひとつ季節が巡り、僕は何度も同じ恋をする。

end

bottom of page