何だか知らないけどさっきからスレイが鬱陶しいったらない。
「ミクミク、ミクちゃん、みーちゃん……」
「なんなんだ? その呪文。あと重い」
ミクリオを背後から抱きしめる格好で、スレイはミクリオの肩に顎を乗せ、突っ込む気も失せるような謎の単語を延々口ずさみ続けている。
「ミクリオのあだ名を考えてるんだけど、どれがいいと思う?」
「……君は僕をバカにしてるのか?」
道中何か気になることがあったんだったら相談に乗るし、考え事に耽っているなら夜食にバニラソフトクリームでも作って持って来てやろうか、あまり根を詰め過ぎないように注意しておいた方がいいかな、なんてつらつら考えていた自分を張り倒したくなった。
というかあだ名って何だ。血迷ったのか最近野宿が続いていたから疲れているのか、それともエドナあたりから妙なことを吹き込まれたか。そもそも当の本人にどれがいいか聞くなよ。
「喧嘩を売ってるなら買うけど」
読んでいた本を閉じてぐるりと後ろを向き、思い切り睨むと、スレイは慌てたように「違う違う!」と首を振った。
「皆お前のことを結構好き勝手に呼ぶじゃん」
「……まあ、そうかもね」
「エドナは『ミボ』だしザビーダは『ミク坊』だろ? ザビーダなんか『ミクリオせんせ〜』って呼ぶ時あるし。オレもオレだけの呼び方でミクリオを呼びたいし呼ばれたい!」
力強く言い切ったスレイに返したのは溜息だ。また子どもみたいなことを。
エドナやザビーダがああ呼ぶのは、自分が同じ天族としてまだまだ未熟なのと、単純にからかって楽しいからだろう。自分で言うのも癪だが。
やたら坊や呼ばわりされるのが嬉しいはずもないのだが、その呼び方をやめてくれと言ったところで「そうやってムキになるところがミボなのよ。悔しかったら早く大人の階段昇りなさい」「俺様に比べりゃ坊やじゃねーか」とか何とか逆襲されたらぐうの音も出ない。人を弄くり回すのが生きがいのエドナと注意しても暖簾に腕押し状態のザビーダに頼んだところで、頼んだこっちが馬鹿を見るというものだ。
エドナに至ってはミボだのポミだの無駄にバリエーション豊かなせいで、もはや今現在呼び名がいくつ存在するのか定かでない。大体あの略称を許可した覚えもまるでないのだが、いつの間にか定着してしまったものを今更蒸し返すのも大人気ないし、第一エドナに口で勝てる気がしない。
「別にいいだろ、普通に名前で呼べば」
「えー、いいじゃん。たまには刺激も大事だってザビーダも言ってたし」
自分の知らないところでスレイがザビーダに何を聞いてるのかはあまり突っ込まないようにしよう。
「じゃあ聞くけど、君は僕から何て呼ばれたいんだ? スレイ様? 絶対嫌だけど」
「え、オレ? えー……えーと……あ、でも『スレイ様』はちょっと興奮するかも」
「……何でも正直に言えばいいってものじゃないだろ…」
話を振っておきながらそのことは毛ほども考えていなかったらしく、スレイは腕を組んで考えこんでしまった。スレイの腕が外れたのをいいことに、ミクリオはベッドの上でスレイに向き直った。
まあ千歩譲ってスレイの思惑に乗っかったとしよう。だがしかし、それは悪夢の再来を意味する。
実は小さい頃、戯れにあだ名をつけあったことはまあ、ある。あるが、浸透したのはほんの一瞬だった。その後イズチに到来した「マーボーカレーにゆで卵をのせて食べるブーム」の方がよっぽど長かったくらいだ。
なぜかというとその理由は九分九厘スレイの名付け方にある。ペンドラゴで気の抜けるような出来の俳句を作っていたスレイは、お世辞にも言語センスに優れているとは言い難い。
カイムに「肉体派おデコ」、マイセンに「炎のチャレンジャー」とつけるスレイのある意味卓越したセンスは当時のイズチを震撼させた。自分も付けられた側だが、もう思い出すのも恥ずかしい。あだ名というより二つ名だし。
ましてや今、エドナ達の前で珍妙なあだ名で呼ばれようものならこぞってからかわれるのは避けられない未来と言えよう。飢えた狼の前に塩胡椒を揉み込んで丁重に焼いた肉を差し出すようなものだ。一ヶ月どころか十年先まで言われ続けるのが簡単に想像できて、考えただけでげんなりした。
「何でそんなにこだわるんだ」
「だから、オレだけの呼び方でミクリオを呼びたいし呼ばれたいんだってば」
「どうして」
「どうしてって」
スレイが出来の悪い教え子を前に、どう教えたらいいのか悩む講師のような目をした。何でそんな顔をされなきゃいけないんだ。
「だって独り占めしたいじゃん」
「……そのためだけに?」
スレイがこういうことを言い出すのは珍しくないので、驚きはしなかった。
口にすればまだいい方だ。他の天族と長々話し込んでいる時は、その場では黙っているものの、二人きりになると不機嫌になったり妙に甘えてきたりする。
ミクリオ、オレのこと好き? そっか。じゃあオレだけ見ててよ。そう刻み込むように言われる度、ミクリオは不思議な気持ちになった。こんなにもスレイのことしか考えてないっていうのに、どうしてそれを疑うような真似をするんだろう。君だけなんだと、他の誰かに心奪われることなんかないと、のべつまくなし伝えていないと気が済まないんだろうか。
「そうだよ」
スレイの声が、ふと張り詰めた。腕が真っ直ぐ伸びてきて、覆い被さるように抱き締められる。スレイの表情は見えない。生身の声と体温だけ。
「お前にとってオレが特別なんだって知りたい。だってお前は」
スレイはその先を言わなかったが、心の声がはっきりと聞こえた。……だってお前はオレを置いていくんだろ。
それはもう仕方のないことだ。スレイが人間として、自分が天族として生まれた以上はいつか辿る道だ。もう何百回何千回と頭の中で言い聞かせたことだ。おそらく100年に満たないだろうスレイの人生に比べて、自分の生きる時間は圧倒的に長い。その先で数え切れないほどの天族や人間に会うだろう。今よりもずっと。
スレイはそれを恐れている。川底に沈んだ石が激流に押し流されるように、スレイとの時間が寄せては返す記憶の波に攫われてしまうんじゃないかと。そうならないという保証はない。今日愛の言葉を囁き合った恋人同士が翌日には破局することだってあるのだ、未来のことなんて分かる筈がない。誰にもだ。
だが、スレイは大きな勘違いをしている。
置いていく? 僕が? とんでもない。何があっても隣に立つと誓った筈だ。
これから先、どう生きようと、自分のどこを切ってもスレイがいる。仮に最期が訪れたとして、走馬灯に見るのもスレイだろう。自分はスレイと一緒に生まれてスレイと一緒に終わるし終える。人の心にずっとあぐらをかいて居座る癖に、それ以上を望もうなんて何様のつもりだ。
「スレイ」
名前を呼び、スレイの胸をそっと押して身体を離した。唇を引き結んでいたスレイが唾を飲み込むのが分かる。
何かがあって珍しくスレイが荒れた時や、落ち込んでいる時は必ずスレイの名を呼んで、その指に触れた。返事がなくても、手を振り払われても、スレイが自分の顔を見ようとしなくてもそうした。僕はスレイの傍にいるんだと、いつだって一番の味方だと知らせるために。
スレイの柔らかい髪に指を絡め、頬をゆっくり辿り、剣だこだらけのごつごつした右手をそっと握った。大好きな手だ。何かを守ろうとする力強くて大きな手。
「……分からない?」
見上げると、スレイが小さく唸った。触れた掌からスレイの鼓動が伝わって来る。
「……分かるよ」
スレイがまた背中に腕を回し、胸に顔をぐりぐり押し付けてきた。顎に触れる髪から微かにお日様の匂いがする。今日はもうサウナに入っているはずなのに、スレイからはいつまで経っても太陽の香りが抜けない。
日が昇る度、必ず自分はスレイを思い出す。
つまり、時が巡る限り、この世がこの世である限り、スレイはいつだって自分の中心にいる。スレイの名前を、息遣いを知る者が自分以外、誰一人いなくなったとしても。
「オレのミクリオ」
スレイがもごもご喋るせいで、胸のあたりがくすぐったい。
「何?」
「……やっぱりお前にオレの名前を呼ばれるのが一番いい」
「そう」
スレイがそのまま動かなくなったのをいいことに、しばらくスレイの髪を撫でていた。やがて気が済んだのか、ようやく顔を上げたスレイの頬を容赦なく片手で掴む。
「痛っ!? 何、ミクリオ」
「分かったら訳の分からないあだ名をやめてくれないか」
「え、やっぱりダメなの?」
スレイが頬を引っ張られたまま眉をハの字に下げた。この期に及んでまだあがくか。
「センスがなさすぎる」
「いいと思ったんだけどなあ、みーちゃん……」
スレイが不満げに首を傾げた。
「……君の美的感覚には脱帽するよ」
「ありがとう」
「褒めてない。やめないと『子犬』って呼ぶぞ」
「え!? なんで!? なんでオレが子犬なんだよ! それオレが苦手ってこと!?」
「間違えた。子犬じゃないな」
「そうだよな。いくら何でもわんこじゃないと思う」
「『大型犬』」
「ミクリオ!!!」
肩を掴んで揺さぶらんばかりの勢いで叫んだスレイに、思わず笑いが零れる。口元に手を当ててひとしきり笑った後、ほっぺたを膨らませているスレイの胸を拳でトンと突いた。
「名前を呼ばれたいのが、君だけだと思うなよ」
スレイに背を向け、本を脇の棚に置いてからさっさとベッドの中に潜り込む。頭から被った布団越しにスレイが何か言うのが聞こえたが、知ったことか。そんなに起こしたかったら、早く布団の中に手だか頭だかを突っ込んで、こっちの了解もとらないうちに足を絡めて抱き枕にすればいい。いつもみたいに。
その前に、表情が緩むのを何とかしないと。
end
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