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 果てしなく広がる大海原と、やんちゃな子どもが緑の絵の具を気まぐれに散らしたかのように点在する小さな島々。おどろおどろしい海賊旗を風になびかせながら手足の如く船を駆り、財宝を求める荒くれ者達。沿岸都市の住民達は、畏怖と憧れを込めて彼の噂をあちらこちらで口にする。

 7つの海を股にかける大海賊、その名もスレイ。

 

「大海賊っつってもまだ見習いみたいなもんじゃないすか。自称じゃあカッコつかないっすよ、船長」

「いいじゃん別に」

 さんさんと陽光の降り注ぐドックで甲板を修理しながら、スレイはとめどなく流れる汗を拭った。今日はいつにもまして一段と暑い。貿易の中継地となっているこの港町は活気に溢れ、今しがた仕入れたばかりの商品を少しでも高く売りつけようと躍起になっている商人達と、値切ろうとするおかみさん連中が大声でやり合っていてやかましいことこの上ない。若い船乗りは(若いと言ってもスレイより5つ年上だったが)、笑いながら休みなく金槌を振るっている。

「それと船長、船首改造すんのやめてくれません?」

「なんで? カッコイイじゃん」

「改造自体はいいんすけどね、控えめに言っても船長のデザインセンス、最悪なんすよ。おかげで港に着く度に酒場の女どもから囃し立てられて困ってるって苦情が各方面から次々と」

「控えめに言って最悪なら、普通に言ったらどれだけ酷いんだよ……?」

 スレイが頭を抱えていると、他の船員がばたばたと駆け寄って来た。

「船長! ちょっとこっちへ来てくれ」

「何?」

「妙なもんが釣れた」

 スレイは甲板から勢いをつけて飛び降り、数名の船員が寄り集まっている桟橋を覗き込んだ。海と縁の深い仕事をしていると、いわゆる「ドザエもん」を引き上げる機会が往々にしてある。そういう時、スレイは手厚く埋葬してやることに決めていた。どんな人間だろうと死ねば仏、行く先が天国だか地獄だか知らないが、魚にあちこち食われて朽ちていくのを見るのは忍びない。どんな輩にだって弔われる権利くらいあるだろう。海賊は義理と人情をことのほか重んじるのだ。

 部下達の騒ぎようから、今回も死体か何かだろうと踏んだのだが。

「……わ」

 固い地面に仰向けに寝かされていたのは、ぶくぶく膨れ上がった死体でも巨大魚でもなかった。腿のつけ根から下が魚の鱗に覆われた、全裸の人間だ。歳はスレイと同じくらいだろう。透き通るような柔らかい銀髪と惜しげもなく晒された白い肌が、黒々と日に焼けた海の男達の中で明らかに浮いていた。

「……人魚?」

 噂と文献でしかお目にかかったことがないが、紛れもなく若い人魚だ。この長命かつ見目麗しい種族は海底深くに棲んでいて、滅多に海上に姿を現さない。はるか昔、人間の乱獲に遭ってからというもの仇敵とばかりに人間を憎悪し(実際親の仇なんだろうが)、天敵のように忌み嫌っていると聞いている。航海中に人魚を一瞬でも見かけようものなら、港へ戻ってからたっぷり1ヶ月は町中その話題でもちきりになるほどだ。なのにどうしてこんな町中に。

「人魚! やっぱり人魚か!! 俺、初めて見た!」

「綺麗だなあ」

「死んだばーちゃんが昔、一度だけ見たって言ってたぜ」

「俺はひいひい爺ちゃん」

 海賊達がやいのやいのと好き勝手喚いているにも関わらず、人魚は目を閉じたままぴくりとも動かない。もしかして死んでいるのだろうか。不安に駆られた矢先、人魚が小さく身動ぎし、取り囲んでいた数人がぱっと何歩か飛びのいた。

「船長、この人魚、売っ払っちまいましょうぜ!」

 スレイの率いる海賊団の中でも一番若いそばかすの少年が、いかにも妙案を思いついたという顔でぱんと手を合わせた。

「人魚って、権力者どもが喉から手が出るほど欲しがってるんでしょ。こいつらの涙は真珠にもなるって聞いてますし、肉を食らえば不老不死。まさに見てよし抱いてよし食ってよし……。それこそ一攫千金じゃないですか! そうすりゃこんなボロ船、自分達で修理しなくても」

 少年は、他の男達に小突かれて途中で口を噤んだ。

「いつも言ってるだろ。オレはあくどい金持ちの船は襲っても、人を売ったりするのは嫌なの」

「人魚はヒトじゃないですよ」

「今回ばかりはそのガキの意見に同意するね」

 スレイがまだ物心ついた頃から寝食をともにしている古参の航海士は、頭上へ向けて煙草の煙を吐き出した。

「ああ? ガキたぁ何だクソジジイ」

「てめえの立場もわきまえねえその口の利き方がガキだっつってんだ、このションベン垂れが。……それにね船長。船乗りなら聞いたことがあるだろ。人魚っつーのは縁起が悪ぃ。連中は人間を嫌ってるし、人と見りゃ船を海中に引きずり込むこともある。どんなに美しかろうが奴らは海神の化身。海の魔物さ」

「それでも、放っておけないよ。……見てよ、この子の腕」

 スレイは人魚の腕をとった。肘から手首にかけて、目を背けたくなるような無残な擦り傷ができている。

「歩けないから、腕だけで必死に地面を這ったんじゃないかな。多分どこかから逃げてきて、やっと海にたどり着いたところで気を失った……ってところじゃないかと思うんだけど」

「逃げてきたぁ? おいおい船長、穏やかじゃねえな」

 言い終わらないうちに、大通りの方がにわかにざわめき出した。やたらと装飾の多いサーベルを腰に差した男の集団が、横柄そのものといった態度で道行く町人に何事か尋ねている。この港を牛耳る上院議員の私兵達だ。酒場の女や町のおかみさんは「議員の腰巾着」と呼んで頭から馬鹿にしているが、腐っても権力者の後ろ盾があるせいで、絡まれるとろくなことにはならない。

 きらびやかな鎧を纏った数名の男は、スレイ達に目を留めるとくるりと方向転換して大股に歩いてきた。

「おい、そこのチンピラども! この辺りで人魚を見なかったか」

 スレイの判断は実に迅速だった。私兵がこちらに気づく前に、素早く人魚を布でくるみ、脇に立っていた部下に抱えさせていた。

「見てないよ。何、おじさん達。人魚がいるの?」

「そうだ。我らが主の館から今朝方逃げ出してな。隠し立てするとただじゃおかんぞ」

 リーダー格の男の視線が、スレイの顔からその横に立っている部下へすっと移った。

「……なんだ、その荷物は」

 部下達の間に小さく緊張が走ったが、スレイはあくまで落ち着き払っている。

「うちの大事な船員が病気で死んじゃってさ。海が好きな男だったから、死んだら海に投げ込んでくれって言われてたんだ。今から沈めに行くところなんだけど」

「本当か?」

「本当だよ。見る? もう腐り始めてるけど」

 スレイがちらりと布をめくると、呼吸していたことを後悔したくなるほどの凄まじい異臭が漂ってきて、男は反射的に後ずさった。他の兵も、各々顔をしかめて鼻を押さえている。

「…………いや、いい」

「そう。じゃあ、お仕事頑張って」

 男はおぞましいものを見る目つきでスレイと布の塊を見比べていたが、やがてひとつ舌打ちをすると踵を返し、他の兵に指示を出しながら通りのほうへ戻っていった。

「……船長。本当にその人魚、腐ってんですかい」

 鼻をつまんでいた船員が恐る恐る尋ねると、スレイはニコニコしながら手を振った。

「まさか。その辺に落ちてた魚の死骸を滑り込ませておいただけだよ。あの人達、本気の殺し合いなんかしたことないんだろ。あんなに動転しちゃって」

「俺達にもダメージでかいんですが……」

「それくらい我慢してよ」

 スレイは、航海士が無言でこちらに視線を寄越していることに気がついて苦笑した。

「ほれ見たことか。目立つ行動は慎んだ方がいいといつも言ってるだろう。大貴族のものに手を出して、バレたら大ごとだぞ。先代の……オヤジさんの件を忘れた訳じゃあるまい」

「……分かってるよ。でも、もう助けるって決めたんだ」

「出た出た、船長のお人好し。これだからいつまで経っても貧乏海賊団から抜け出せねえんだよなー」

「すまじきものは宮仕えと海賊だよ、全く」

 口々に言いながら肩を竦める船乗りを一瞥して、航海士はゆっくりと煙草を吸い、諦めたように首を振った。

「お前さんには何を言っても無駄なようだな。頑固なところばかりオヤジさんに似おってからに」

「へへ」

「へへじゃない」

 

 

 港で介抱していては、いつ何時私兵に見つかるか分からない。スレイは迷った挙句、手早く荷物をまとめて夜明け前に出港した。海の上なら誰かに発見される可能性は低いし、人魚の意識が戻ればすぐに故郷に帰すことができる。若い部下連中はもっと陸での生活を満喫したかっただの女を抱きたかっただのと散々ぶーたれていたが、錨をあげる段になると、不平不満はぴたりと止んだ。一度言い出したら聞かないスレイの性分を一人残らず知っていたし、結局のところ、世にも珍しい人魚に興味津々だったのだ。

 

 とはいえ一向に目を覚ます気配のない人魚をどう介抱すればいいのか、スレイにもてんで見当がつかない。船長室に山積みになっている文献をあちこちひっくり返して隅から隅まで目を通すと、ほんのわずかではあるが人魚の生態について記述があった。先人の知恵は借りるものだ。

 スレイはすぐさま船倉に積み込んでいた酒樽を解体すると、ゆうに人ひとり入れるほどの水槽を組み立てて海水を溜め、甲板の涼しい場所においた。人魚が目覚めた時、すぐに対応できるようにするためだ。ぐったりした人魚を抱えて慎重に水槽へ沈ませると、なんとなく人魚の頬に赤みが差したような気がした。

 

 港を出てちょうど3日目。のんびりと航行していた昼下がりに、甲板から悲鳴が上がった。

 

 航海士と今後のルートについて相談していたスレイは、すぐに話し合いを中断して部屋を飛び出した。甲板の上では、件の水槽を部下達が取り囲んでいる。

「よう。起きたか」

「大丈夫か? 指は何本に見える?」

「馬鹿。てめえの太った指じゃあ2本も3本も同じことだろうが」

「言葉通じてんのかな」

 上から覗き込まれている形の人魚は、怯えたように口を閉ざしている。答えない人魚を心配してか、船員がますます顔を近づけるので、それに合わせて人魚がじりじり後ろに下がり、水槽の壁にどんとぶつかった。完全に逆効果だ。

「ちょっとみんな、離れて離れて! 怖がってるじゃんか」

「なんでえ、人を狂犬か何かみたいに」

 狂犬どころか猛獣のような強面の男達に囲まれたら、どんなに肝が据わった人間でも裸足で逃げ出すと思うんだけど。

少しずつ人の輪が離れていくと、人魚はゆっくりとこちらを向き、珊瑚によく似た色の瞳と真っ向から目が合った。

 

 なんて綺麗な。

 

「……来るな」

 人魚の唸るような声音で、スレイはやっと我に返った。

「あ、ごめん、怖がらせて。オレ達は……」

「君達の思い通りにはならない」

 目を奪われるようだった人魚の瞳が、弾け飛びそうな怒りのせいで、一段と濃く染まった。まずい。完全に議員の手の者と勘違いされている。港で倒れていたはずなのに、気が付いたら海の上だったんだから攫われたと勘違いしても無理ないが。

 弁明しようとしたその瞬間、スレイは尾びれで強かに脇腹を殴られた。たかがひれと思いきや、渾身の力で殴られると大の大人から鈍器を叩きこまれるのと変わらない。

 声にならない声を上げてうずくまったスレイに、バシャバシャと容赦なく水槽の中の海水が浴びせられる。

「すげえ。痛そう」

「近くにいなくてよかったな」

「ちょっとみんな、落ち着いてないで…! 痛っ、まっ、待ってって……!!」

 人魚が水槽の枠に手をかけ、身を起こそうとした途端、また沈んだ。

「つっ……!」

「……腕、やっぱりまだ痛む?」

 スレイに聞かれて、人魚はやっと自分の腕に包帯が巻かれていることに気が付いたらしい。

「巻いていいのか分からなかったけど、巻かないよりはマシかなと思って」

 びしょ濡れになった前髪を払い、攻撃が止んだのをこれ幸いとようやく立ち上がる。人魚は怪訝な顔で包帯とスレイを交互に見やっていたが、もう一度、スレイを真正面からぴたりと見据えた。

 今のところ驚きの方が勝っているようだが、とりあえず怒りは収まったらしい。よかった。この人魚から敵意に満ちた目を向けられると何だか冷静ではいられない。

「お腹空いてない? 何か食べる? 人魚って食事するのか分からなくて、オレ達用の食材しかないんだけど」

「ウチの船、専属の料理人はいねえが船長が恐ろしく料理上手なんだ」

「ネギ食べたら中毒起こすとかねえよなあ」

「そりゃ犬猫の話だ馬鹿野郎」

「船長、早く服、着替えて下さいよ。風邪でもひいて、俺達に伝染ったら困りまさあ」

「ちょっとはオレの心配してよ……」

 すっかり毒気を抜かれたらしい人魚は、やたら賑やかに騒ぎながら去っていく男達を唖然として見送っていた。

 

 日が落ちても、人魚は一向に口を利こうとはしなかった。まだ完全に心を許した訳ではないらしい。

 しかしてスレイ達は逞しかった。人魚も食事をするものだと分かると、船倉に積んでいたありったけの保存食を駆使してレストランもかくやという料理を作り上げ、甲板で宴会をした。人魚が皿に手をつけないといかにきちんと栄養を取ることが大事か懇々と説いたし、空いた時間には手品の得意な船員が練習がてら特技を披露してみせた。

 部外者を乗せることなんて滅多にないので部下達が張り切るのなんの、人魚がたまに笑うようになると、俄然勢いづいた男達が各自の仕事の休憩中に入れ替わり立ち替わり人魚のもとへ顔を出すほどだった。

どうせ目的地までは何日もかかる。強いて荒稼ぎする必要もないし、しばらくは海賊稼業もお休みだ。どうせ貧乏生活には慣れっこなんだし。

 

 

 水槽にもたれ、スレイが休暇気分でのんびり本をめくっていると、斜め後ろからぐさぐさと視線が突き刺さった。読書に集中しようとしたが、待てど暮らせど剥がれる気配がないので諦めて後ろを振り返った。

「……本、好きなの?」

「別に」

 口ではそう言っているが、明らかに目が本に釘付けだ。この人魚、思ったよりもずっと素直なのかもしれない。

「人魚も本って読むんだ」

「違うって言ってるだろ」

「一緒に読む?」

「だから違うって!」

 「話を聞いてくれ」だの「耳ついてるのか」だのぶつぶつ繰り返していたが、スレイが人魚の方に身体ごと本を寄せてみせると、いかにも渋々といった体で水槽の枠から身を乗り出した。別に恥ずかしがらなくてもいいのに。

「そういえば、君の名前は? 聞いてなかったよね」

「名前?」

 人魚は文字を追うのに夢中でほとんど生返事だ。スレイがわざとページを繰らずに「名前」ともう一度尋ねると、人魚はどことなく不満そうな顔でぞんざいに答えた。

「ミクリオ」

「ミクリオ。……どういう意味?」

「知らないな。大した意味もないんじゃないか」

「そうかな。素敵な名前だと思うけど。名前って、親が子どもに贈る一番最初のプレゼントだろ」

 ミクリオは初めて紙面から目を離し、ゆっくりと瞬いた。

「君は変だ」

「よく言われるよ」

「だろうね。そもそも僕を拾って何もしないのも変だ。人間に捕まったら殺されるか拷問されるか死ぬまで閉じ込められるかだと思ってた。あるいは……」

 ミクリオは目を伏せ、少しの間口ごもっていた。上院議員に捕らえられていた頃のことを思い出していたのかもしれない。

 何をされたのかは知らないが、富豪どもの「戯れ」は想像を絶する。今まで襲った貴族の私船の中にも、遊び感覚で虐げられたのだろう奴隷達が大勢いた。あいつらは人とは思えないことを平気でやる。地位と驕りがそうさせるのだ。何をしても許されるという絶対的な自信と、甚だしい思い上がりが。だからこそ、自分たちが、海賊が存在する。

「人魚って海の底で暮らしてるんだろ? ミクリオは何で海の上にいたの?」

 わざわざ身の毛のよだつような記憶を掘り返させることはない。スレイがミクリオの思考をぶった切るように努めて明るく聞くと、ミクリオははっと顔を上げた。

「……月を」

「月?」

「一目でいいから月を見たかったんだ。海底にはきらびやかな珊瑚礁や熱帯魚の住処なんかはあるけど、星空や月はない。人魚の間で噂として伝えられているだけだ。でも、どうしても不思議だった。海の上は悪鬼みたいな人間達が蠢いている恐ろしい世界だって聞いてたけど、そんな酷いところに夢のような美しいものが架かってるんだろう? だから、自分で見てみたくて……。こっそり抜け出してきたんだ」

 穏やかで安全な故郷を抜け出してでも、ミクリオは月を見たかったのだ。人魚達の桃源郷にはないもの。野蛮でごうつくばりな癖に、船がなければ陸地でのろのろ歩くしか能のない人間の頭上で冴え冴えと輝く満月を。海の上でもはるか底でも、見えない世界に憧れる。

 潮風が、ふたりの間を駆け抜けた。

「……『知識よりも自分の目と勘を信じろ』」

 スレイがぽつりと呟いた。

「何だい、それ」

「父さんの口癖。本や伝聞で知ったことっていうのは、必ず誰か他の人間を通してる。そこで事実が捻じ曲げられることもある。100人いれば100通りの真実がある。人の話を鵜呑みにするな。必ず自分で確かめろって」

 スレイは本の表紙を指で弾いた。

「これも全部父さんの置き土産でさ。世界中の海を回って、珍しいお宝を見つけ出すんだーって息巻いてたよ。すっごいロマンチストなんだよな」

「やっぱり変わってる。君のは完全に血だな。お父さんは陸にいるのかい?」

「死んだ」

 ミクリオがいきなり黙った。

「海軍って分かる? オレ達みたいなのを取り締まってるんだけど、その人達に捕まって処刑されたよ」

「……悪かった」

「気にしないでよ、よくあることなんだから。捕まった父さんが悪いんだよ」

 ミクリオはまだ何か考えあぐねているようだったが、やがて意を決したように顔を上げた。

「……あの、船長」

「スレイって呼んでよ」

「……スレイ。目が覚めた時、殴ったりしてすまない」

「え!? いやいいよ、別に痛くなかったし。知らなかったんだしさ」

「そういう訳にはいかない。知らなかったからといって、何をやってもいい訳じゃない。結局、きちんと謝罪できていなかったから……。許してほしい」

 もしかしなくても、ずっと謝る機会を伺っていたんだろうか。スレイはあたたかいような愛おしいような切ないような、とにかく妙な気持ちがぐうっとせり上がってきて、ミクリオを思いっきり抱きしめた。

「な、何だいいきなり。君、濡れるだろう」

「オレ、ミクリオに会えて嬉しいよ」

 ミクリオは戸惑っているようだったが、肩に顔を埋めたままぐりぐりと頬を擦りつけるスレイの背中をぽんぽんと叩いた。人間よりもずっと柔らかい髪。

「……僕もだ」

「気にしてるんだったら、オレの言うこと、ひとつ聞いてくれる?」

「僕にできることならなんでも」

「じゃあ、オレと一緒にいて」

 思わず口走ったそばから後悔した。一緒にいて? 今はよくても、いつ戦闘状態に入らないとも限らない。そうなれば真っ先に狙われるのはミクリオだ。金銀財宝より価値のある人魚と行動をともにしているなんて知れたら海軍どころか同業者や商人達にまで次から次へと攻撃されるのは目に見えている。自分のエゴで、ミクリオを危険に晒すわけにはいかない。

「……ごめん、忘れてよ」

「見〜ま〜し〜た〜よ〜船長〜」

 慌てて腕を離した途端、いつの間にやら釣り道具を抱えて甲板にやってきていた甲板長にニヤニヤと肩を抱かれた。

「白昼堂々抱き合うとは船長も隅に置けないじゃないですか。街の女どもに興味を示さないと思ったら、さてはコッチですね」

「何だいコッチって」

「わーっ! ミクリオは知らなくていいよ!」

「またまた、ちゃっかり名前まで聞いちゃって。いいですかミクリオさん、船長と変なことをする時にはですね、あらかじめ言っておいていただければ俺ら空気になりますんで」

「何だい変なことって」

「もう、それ以上喋らないでよ!」

 ああ言えばこう言う部下をなんとか黙らせようと試行錯誤しているスレイと、げらげら豪快に笑いながら逃げ回っている甲板長を目の当たりにして、ミクリオが噴き出した。

「とにかくさ。傷が治るまで、いつまでもこの船にいたらいいよ。そうしたら……」

 

 そうしたら。

 そうしたら、ミクリオは海のはるか深く、人魚達だけの楽園に舞い戻ってしまうのだろうか。人間では到底足を踏み入れることのかなわない地に。

 

 

 

 

「船長、船の影が」

 

 食糧庫で麻袋と麻袋の間に頭を突っ込んでお目当ての食材を探していたスレイは、緊迫した部下の声に上半身を勢いよく引き抜いた。マストに昇って身を乗り出してみると、確かに船の輪郭が小さく見える。艦隊編成だ。遠目でも、一体どこの誰が何のために駆っている軍艦なのかすぐに分かった。忘れるはずがない。海賊にとっては天敵で、スレイにしてみれば因縁の相手。出来ることなら一生涯相まみえたくない男だ。

「哨戒中にしては大所帯だね」

「お手々つないで楽しくお散歩中って訳でもなさそうっすね」

 この辺りは、港町への最短航路とは言いがたい。先方の指揮官が相当なボンクラでないとすれば、明らかに何かを捜している。

 仕事柄情報には気を遣うが、港で話を聞いていた限り、大捕り物の予定もどこぞの国同士の小競り合いもなかったはずだ。となれば、腰の重い海軍がわざわざ動く理由は、他にひとつしかない。

 ……とうとう来たか。予想よりもずいぶん早い。

 交易で潤う海洋都市ひとつ統治している政治家ともなれば、軍を動かすことも、お気に入りの人魚を連れ去った下手人に当たりをつけることもお手のものだったろう。それだけミクリオを取り戻したくて仕方がないということだ。連中の手の届く海域を抜けられればと思っていたが、そうは問屋が卸さないらしい、

「……全員持ち場について」

 スレイはマストを滑り降り、音を立てて着地した。バタバタと船員が走り回り、たちどころに殺気立ち始めた船の中で、ミクリオが水槽から頭を出して何事かと辺りを見回している。

「何かあったのか、スレイ? ……まさか、追手が」

 スレイはそれには答えず、水槽ごとミクリオを抱え上げ、ミクリオがあちこちぶつけたりしないよう細心の注意を払いながら船内へ通じる扉を蹴って開けた。海に逃がすことも考えたが、万一連中に見つかったら元も子もないし、戦闘になれば巻き添えを食う可能性がある。

「絶対出てきちゃダメだ。何があってもここにいて」

 まだ何事か喚いているミクリオを船長室に押しこんでおいてから、スレイは甲板を真っ直ぐ突っ切って矢継ぎ早に指示を飛ばした。敵は4隻。ざっと見積もって2、300人は乗っていると見ていいだろう。こっちはたかだか二十数人、白兵戦にもつれ込めばほぼ勝ち目はない。

 勝ち目。勝ち目が少なければ、多くする手立てを考えるだけだ。わざわざ相手の土俵に立って真っ向からぶつかってやることはない。火力で負けていれば戦略で補う。多勢でなくとも、培った技術と血よりも濃い絆がある。嘆きもしない、媚びもしない。ましてや武力と権力に胡坐をかいている奴らに、なす術もなく屈するなんて真っ平ごめんだ。それが自分達の流儀。

「右に転舵、ノット30! 入り江を目指して! あそこなら軍艦の大きさじゃ入って来られない!」

「アイサー!」

 敵船にもこちらが勘付いたことは伝わっただろうが、スピードなら小型船の方が上だ。ぐんぐんと速度を上げるスレイの船を追うように、艦隊がのっそりと動き出す。その姿は、まるで獲物に狙いを定める闇夜の獣だ。

「あっちの船、最新式ですぜ」

「やだね〜これだから金のあるとこは」

 陸の人間は皆言う。海なんてどこを見ても同じだと。水平線の果てまで何の変哲もない海面が続いていくだけだと。それは違う。腕のいい庭師が小枝一本の不調すら見逃さないように、漁師と海賊は海の息吹を感じ取る。海は刻一刻と変化する、ひとつの生き物だ。だからこそ、スレイ達は海を畏れ、敬い、かすかな潮の流れにすら気を払う。今までそうやって窮地を切り抜けてきた。

 海と、この船のことなら染みの数までひとつ残らず知り抜いてる。この付近にある複雑怪奇な地形は、身を隠すにはもってこいだ。

 

 艦隊の一隻から耳をつんざくような轟音がして、凄まじい閃光と衝撃が船を襲った。

 ミクリオを奪いたいのならこちらを撃沈させる訳にはいかないから、単なる威嚇射撃だろうが、それでも何人かが吹っ飛んで壁に叩きつけられる。

「けっ、下手クソが。大砲ってのはな、こうやって撃つんだよ! 冥土の土産によーく目に焼きつけとけこの初心者ども!!」

 砲撃手が爛々と目を輝かせながら虎の子の砲弾を撃ち出すと、軍艦の横腹に風穴が空いた。だが、当然ながら軍艦はびくともしない。

 沈められなくていい。こちらが入り江に潜り込めるまで、十分な時間を稼げればいい。入り江を抜ければ、その先は他国の船が巡回する海域だ。下手に大立ち回りをして他国船にかすり傷ひとつでもつければ、国際問題に発展しかねない。そんなところで追い回すほど、敵も愚かではないだろう。

 逃げおおせれば、あとは巡回船の監視をかいくぐっていけばいい。国籍を持たない海賊船の特権だ。どうせ海から海を渡り歩くならず者集団、どこの国だろうと海があれば、そこは自分達の庭だ。

 

 狭い入り江に近づくと、案の定、追い縋ってくる4席の速度は徐々に緩んでいった。

 逃げ切れる。

 そう確信した瞬間、そばかすの少年が金切り声を上げた。

「船長……ッ!」

 入り江の奥から、不気味に黒光りする軍艦がゆらりと姿を現したのだ。スレイの全身から血の気が引いた。

 もう一隻いたのか!

 スレイの船は、じりじりとスピードを落とした。それに応じて、後ろから追ってきていた4隻と、待ち構えていた1隻がゆっくりとスレイ達の船へ距離を詰める。

 海賊船の三倍は大きい戦艦を横付けにして悠々と降りてきたのは、ぎらついた眼光の抜け目なさそうな男だった。スレイに比べるとよっぽど海賊と言って差し支えない風貌だが、制服と、見せびらかすようにつけている勲章がそうではないことを示している。栄えある海軍提督の証だ。

「……オレ達みたいな小さな海賊団に5隻って、やりすぎじゃないかな?」

 海賊団の船員達をぐるりと取り囲むように、鎧に身を包んだ海兵達が手に手に得物を構えた。

「獅子は兎を狩るのにも全力を出すというだろう? まあ、貴様らは兎というよりドブネズミだが」

「ふん、女王の威を借る狐が……。獅子とは笑わせるわ」

 航海士の嘲るような口調にわずかに眉を跳ね上げたが、提督はあくまで尊大な態度を崩さない。

「人魚はどうした」

「もうこの船にはいないよ。海に帰った」

「かえった」

 提督はあざ笑うように一度復唱すると、力いっぱいスレイの足を踏みつけた。

「いっ……!!」

「てめえ! 二度もうちの船長に手出ししやがったらタダじゃおかねえ!!」

「二度?」

 提督はぐるりと海賊団の面々を見渡した。

「ああ……何だっけ……そんな奴いたかな?」

「健忘症じゃねえのか、提督様よ」

「お前らは捨てるゴミにいちいち名前をつけるのか?」

 たちまちいきり立った部下達を手で制してから、スレイは提督に向き直った。

 父親はスレイと違って剣の腕はからっきしだったが、先住民の輪の中にあっという間に溶け込んで、肩を組むような男だった。スレイの記憶の中にある父は明けても暮れても朗らかで、民間船を襲っては一般人を拉致し、奴隷売買で私腹を肥やす他の海賊達とは明らかに違っていた。誰よりも海を愛し、冒険を愛し、船の仲間達を愛していた。喧嘩が苦手な分戦術を駆使するのが得意で、巨大な駆逐艦2隻を1隻の小型船で軽々翻弄し、同士討ちさせたことさえある。

 その華々しい戦績と、人を惹きつけるカリスマ性。むやみやたらと人を傷つけない厳格さが、いつしか港の人々の間でこう囁かれるようになった。海の傑物、「大海賊に最も近い男」と。

 しかし、だからこそ、他の海賊達から不興を買った。海賊団の中には、政治家とどっぷり癒着して財を成す者もいる。そういう連中に密告されたのだ。陸のアジトを急襲され、剣や斧を携えた軍人達に囲まれても、父の澄んだ目は一切揺らがなかった。一網打尽にされないよう息子のスレイと船員達を裏口から逃がし、自ら絞首台にのぼった。乗組員のことについては、どんな拷問に遭おうと決して口を割らなかったという。首をくくられる寸前、父はぽつりと呟いた。その遺言を、スレイは処刑を今か今かと待ち望む群衆の間で聞いた。

 スレイ。あとを頼む。

 

「人魚がいないなら仕方ない。だが、手ぶらでは帰れんな。せめて議員の財産に手を出した不届き者どもを一人残らず捕らえて、厳罰に処さねば」

「その必要はない」

「ミクリオ!?」

 鍵までかけておいたはずなのに、それでも這い出てきているということは全力で体当たりでもしたか、重いものでドアを殴ったかしたのだろう。完全に舐めていた。何をってミクリオの行動力を。

 倒れた水槽から流れ出た水が、甲板まで溢れてきている。ミクリオは荒い息をつきながら必死に声を張り上げた。

「僕を追って来たんだろう? だったら連れていけばいい。彼らは関係ない、見逃してやってくれ」

「ミクリオ!」 

 提督はスレイとミクリオを交互に眺めていたが、いかにももったいぶった様子で「やっぱりまだ乗せていたか」と鼻で笑った。

「もちろん。もとよりこんなつまらん海賊ども、掃除したところで何の手柄にもならんからな」

 ミクリオが唇を噛んだ。いっそ心配になるほど白く透き通った頬が、ほのかに紅潮している。

「スレイ達はつまらなくなんかない……!」

「何を怒っているのか知らんが、話が早い。……こっちへ来い」

「やめろ! ミクリオ!!」

 海兵の一人がサーベルを抜き、血相を変えたスレイを遮るようにぴたりと当てた。

「動くな小僧。お仲間ともども死にたいか? ……いーい取引じゃないか。どうせこの人魚とは何の関係もないんだろう? 人魚一匹で処刑を免れるなんて万々歳だろうが。己の罪深さを重々顧み俺の寛大さに感謝しながら、せいぜい小さくなって生きるんだな穀潰しども」

 沸騰しそうにぐつぐつ煮えたぎる頭を必死で回転させながら、スレイはこの場を切り抜ける方法を捻り出そうとした。降伏したふりをして騙し討つか? いやいやそれこそ多勢に無勢だ。頼むから自分の命と引き換えに、ミクリオと船員を助けてやってくれと懇願する。受け入れられれば願ったり叶ったりだが、それは向こうにとって得がない。他は……。

 スレイの苦悩を知ってか知らずか、ミクリオはスレイを一瞥して、ふわっと微笑んだ。

「元はといえば僕のせいだ。縁もゆかりもないのに、助けてくれてありがとう。……忘れないよ」

 その表情には見覚えがある。処刑台に上ったあの日の父と同じ、腹を括った目。

 

 ミクリオを助けることは、即ち盃を交わした船員を死地に追いやることだ。父が命と名誉を賭して守り抜いた海賊団を崩壊させることだ。普通の船長なら、迷うこと自体がおかしい。何がなんでも他を切り捨てて、自分の船と乗組員を守ろうとするだろう。ましてや行きずりの人魚一人。

 でも。

 縁もゆかりもないのはこっちも同じだ。ミクリオだって、よりによって目をつけられやすい海賊なんかに拾われなければこんなことにはならなかった。傷が治るまでなんて悠長なことを考えていないで、とっとと海へ戻すべきだったのだ。心のどこかで、一日、もう一日とずるずる先延ばしにしてた。全体の利益よりも私情を優先させた。船長としてあるまじき判断だ。そのツケを、ミクリオ一人に払わせるのか。

 かけがえのない存在に、二度も。

 

 海賊達が、ゆっくりとミクリオの前に立ちはだかった。

 

「悪いねミクリオさん。これ以上行かせるわけにはいかねえな」

「俺たち海賊の最大の法度はね、仲間を売り渡すことなんですわ」

「船の上で同じ釜の飯を食った以上、あんたはお客様じゃねえ。俺たち海賊団の一員だ。これで生き延びたとしても、別んとこが死んじまう」

 海賊達は、この期に及んで笑っていた。

「船長。あんたと、あんたのオヤジさんにゃ身も心も夢も命もとっくに捧げてる。今更何を遠慮することがある?」

「船長」

「ご命令を」

 仲間の尊厳を踏みにじり、母なる海を荒らす無粋な輩への命令を。

 再び陸に帰れる保証はない。十中八九、誰一人弔う者もない海へ塵芥のように葬られるか、あるいは虫の息のまま捕らえられて縛り首にされ、見せしめに晒されるか。

 生きるか死ぬかの瀬戸際だというのに海は信じられないほど穏やかで、ほんの一瞬、ここが戦場であることを忘れた。

 ……いい風だ。

 スレイは大きく息を吸い、力強く剣の柄を鳴らした。

「この船を土足で荒らしたこと、後悔させてやれ! 総員突撃!!」

「クソガキが!!!!!!」

 スレイは真横の海兵を肘で殴り飛ばし、銃弾の飛び交う中、後退してミクリオを背に庇った。

「スレイ! なんてことを……!!」

 ミクリオが悲鳴のような声を上げた。彼の悲鳴を聞くのは二度目だったが、ミクリオの切羽詰まった声音は胸の奥をざわつかせる。やっぱり、笑っている方がずっとずっとずっといい。

 だから、もう迷わない。今の自分には、守りたいものがある。

「ミクリオ、隙を見て海に逃げろ」

「でも」

「早く!!!!!!!!!」

 スレイは切りかかってきた海兵2人を剣で真一文字に薙ぎ払い、怒鳴った。想像以上の抵抗に、提督側は一瞬、怯んだようだった。だが、あくまで一瞬だ。船同士の駆け引きならいざ知らず、向こうの人海戦術にかかればそう長くはもたない。それでも、膝を折る訳にはいかない。

 一人、また一人と部下達が倒れて動かなくなっていくごとに、スレイは心の中で彼らに感謝した。航海士には何度も叱られた。厳しくしすぎたんじゃないかってたまに悩んでること、知ってたよ。就寝前の煙草だけは何度言っても最後までやめてくれなかったな。甲板長には操舵のやり方から大物の釣り方まで、何でも教えてもらった。長い間、一緒に戦ってくれてありがとう。

 視界の端で、ミクリオが海に飛び込むのが見えた。

 そうだ。それでいい。あとは、ミクリオが出来る限り海底深くまで逃げる時間を稼ぐだけ。

 既に、船の上に立っている海賊は自分一人だ。全身に浴びた返り血のせいでどこもかしこも真っ赤で、とっくに腕も足も区別がつかない。右手に構えた剣が重い。正直もう、体力の限界だ。

 海兵達が、銃の照準をスレイに合わせた。

「哀れだなぁ小僧。歴史に名を刻むこともないだろう。じゃあな」

 死んで、また生まれるのだとしたら、今度は海の生物がいいな。魚とか。イルカとか。ナマコはちょっとやだな。

 今度もミクリオに会えるように。気兼ねなく話せるように。ミクリオはオレのことを覚えていてくれるだろうか。忘れるはずがない。ミクリオがそう言ったんだから。

 

 潮風の流れが変わったことに気づいたのは、おそらく、スレイ一人だったろう。

 他の海兵達は、自分達を散々手こずらせた憎き海賊を仕留められる安堵からか、気が緩んでいた。何人かは、このあと陸に戻ってからの楽しい予定にまで頭を巡らせていたかもしれない。

 少しずつ、本当に少しずつ、船を取り巻く潮流が早くなっていく。海軍が異変に気がついた時には、凪いでいたはずの海が、唸りを上げて轟いていた。自然現象では決してあり得ない波のうねりが、巨大な竜のように船に襲いかかる。軍艦同士が耳障りな音を立ててぶつかり、まるで子どもの玩具のように真ん中からあっけなく引き裂かれる。

 

 人と見りゃ船を海中に引きずり込むこともある。どんなに美しかろうが奴らは海神の化身。海の魔物さ。

 

 人魚の怒りは、海の怒りだ。海が反旗を翻した時に初めて、人はあくまで取るに足らない生き物なのだということを思い知る。そして、あとにはただ、静寂だけが残るのだ。

 他の海兵ともども甲板から勢いよく投げ出されたスレイは、渦を巻く海中に沈んだ。苦しみもがきながら海流に巻き込まれて暗い海底に引きずり込まれていく海兵同様、スレイも今度こそ死を覚悟したが、不意に手を引かれて目を開けた。優雅に身をくねらせるミクリオが、眼前でうっとりするような微笑を浮かべていた。

 

 僕と一緒においで、スレイ。

 王国の住人は僕が必ず説得するから。

 海の底なら、命を奪われる脅威に脅えることもない。家族同然の仲間を失って悲しみにくれることもない。

人間としての暮らしを捨てることにはなるけれど、君と永久に会えなくなるよりは。

 

 甘く、柔らかく、寄せて返す波のようなミクリオの声。

 

 

 

 

 

 後の歴史書には、こう記される。

 海軍を出し抜き、再起を果たしたその大海賊の傍には、時折世にも美しい人魚が姿を現してはぴったりと寄り添っていた、と。

 

 

end

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