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 この村にお越しになる途中、池がありませんでしたか。

 そうそう、鬱蒼とした森の中にぽつんと佇んでいる池でございますよ。魚一匹いなかったでしょう。あそこはいわくつきの場所でしてね。20年前、永遠の愛を誓い合った若い夫婦が山賊に襲われ、池に突き落とされて惨たらしく殺されたのだそうです。

それからですよ。夜な夜な長い髪の女が恨めしさと人恋しさに旅人を引きずり込むのだと言われております。さぞ無念なのでしょうな。比翼連理などと申しますが、片割れを失えばただのけだもの、ふた目と見られぬ異形のものでございます。ええ、ええ、村の者は日が暮れるとあの辺りを通ろうとは致しません。まことに人の業とは深いものですな。

 

 ですから、導師様も、あの池にはゆめゆめお近づきになりませぬよう。何が起こっても、私どもの関知するところではございませんから。

 大雨に降られて途方に暮れていたオレ達に部屋を貸してくれた親切な村長は、それだけでは飽き足らなかったのか、それとももてなしのつもりなのか、嬉々として「村に伝わる選りすぐりの怪談」を二つ三つ披露してくれた。しかもご丁重に草木も眠る丑三つ時、真っ暗な部屋の中で蝋燭の頼りない明かりを囲んでの約1時間だ。

 村長が話を締めくくるまでの間、エドナは退屈そうに傘のノルミン人形を弄り、ロゼは半泣きになりながら耳を塞ぎ、ザビーダはさっさと床の上で横になり、ミクリオは何やら逐一書き留めていた。

「ミクリオ、何書いてたの?」

「さっきの村長の話。いずれ本を書く時、貴重な資料になるかもしれないだろ? 民俗学的な視点も必要だろうしね」

 布団に潜り込む前、ミクリオはいつも持ち歩いているらしい小さなノートを大事そうに棚の上に置いた。

「へえ。見せてよ」

 オレがノートの方に伸ばした腕は、見事に空振った。

「イヤだ。どうしてもって言うんなら、僕の本が出来上がるまで待つんだね」

「ケチ。頑固者。人でなし。ミクリオの意地悪ー」

「何がいじわるー! だ。うるさい。寝ろ」

 でもさミクリオ。村長さんの話してくれたあの怪談、間違ってるよ。そう言いかけて、オレはすんでのところで飲み込んだ。

 死んだのは若い夫婦じゃない。10歳くらいの、小さな女の子だ。

 だって。

 いるんだ。お前の後ろに。

 ミクリオの首に腕を回したまま足をぶらぶらさせていた少女は、オレと目が合うと、唇の前で人差し指を立ててぱちんとウィンクを寄越してみせた。

 彼女がミクリオに憑いた理由は皆目分からない。街道が土砂崩れで封鎖されてしまっていたため、迂回して深い森を抜け、ついでに憑魔との戦闘を2、3こなし、息を整えながらさてと振り返ったら既にいたのだ。思い当たる節といえば、池のほとりにあった小さな祠くらいか。

 驚いたことに、ミクリオ本人はもちろんのこと、エドナもライラもザビーダも一向に気が付く気配はないようだった。

 ザビーダが少女に覆い被さる形でいきなりミクリオの肩を抱いた時には、思わず目を疑った。ミクリオの背中に女の子がぴったり張り付いている光景なんて目の当たりにしようものなら、ロゼは卒倒しているだろうから、九分九厘彼女の目にも映ってないんだろう。オレだけだ。オレだけにその少女の挙動がはっきりくっきり見えていた。

 もちろんオレは最初仰天し、動揺し、「夢でも見てるのかしら?」と自分のほっぺたをつねるという実に古典的な手に出た。だがちっとも視界は明転も暗転も好転もせず、それどころか少女はオレに気が付くと、至って気さくに話しかけてきた。

「こんにちは、お兄ちゃん。私に何かご用?」

 「幽霊は顔色が悪くて足も透けているのが定石だ」と何かの本で読んだが、少女は血色もよく、生きている人間そのものだった。見ようによっては、小さな女の子とミクリオが戯れている微笑ましい構図に見えないこともない。

 だが、当のミクリオは少女をぶら下げたまま平気でライラと話し込んでいるので、傍目にはやっぱり異常だ。

「……ご用も何も、君、誰? 何? いつからいたの? 何でミクリオにくっついてるの?」

「一気に聞かれても分からないわよ。質問は一回につきひとつまでって、ママか先生に教わらなかったの?」

 オレは、彼女が何者であろうと、万一ミクリオに何か害を及ぼすようであれば徹底的に話し合い、それでも無理ならどんな手段に訴えてでも即刻離れてもらおうと物騒なことを考えていた。

 憑魔であれば浄化する手立てはあるが、除霊の仕方については全くの門外漢だ。彼女からは穢れの気配が一切しなかった。

 幸いというべきか何というべきか、少女は「いるだけなんだからいいじゃない」と主張し、実際ミクリオ自身にも身体の不調や精神の不調はまるで見られなかった。念のため、「最近、何か変わったことはない?」と恐る恐るミクリオに尋ねると、「何かって、何が?」と返された。

「その……肩が凝るとか、腰が重いとか、夜金縛りに遭うとか」

 ミクリオは形の整った眉を盛大に顰めると、読んでいた『アスガード風遺跡建築についての一考察』の198ページに丁寧に栞を挟み、ぱたんと閉じた。

「別に? 特に変わったことはないな。強いて言えば、最近ちょっと二の腕に筋肉がついた気がするんだけど」

「それは気のせいだよ」

「何だって?」

「何でもない。他には?」

「エドナがおやつを要求してくる頻度が増えたくらいかな。日に三度はせがまれるんだ。もうおやつじゃなくて食事だろ」

 しまいには「それより最近スレイの寝言が多くて眠れない」と苦言を呈される始末だったので、オレはほっと胸を撫で下ろしつつも、急に別の不安に駆られた。少女は、ミクリオにへばりついている目的を尋ねても「私、面食いなのよ」などとのらりくらりかわし、断固として話さない。

 このことをミクリオに伝えるべきだろうか。何て言うんだ? お前、女の子の幽霊にとり憑かれてるよって? お前には見えないし聞こえないだろうけど、って? 対処法のめども立っていないのに、いたずらに不安を煽るような真似をして一体何になる?

 オレはしばらくあれこれ悩んだ挙句、ミクリオには言うまいと決めた。見えるのはオレだけなんだから、オレと彼女の間で片をつけよう。今のところ、何の影響も出てないんだし。

 と思ったが甘かった。

「やだぁ、レディの前で脱ぐの? へんたーい」

「……」

「あら、思ったよりいい身体ね」

「……」

「あ、私、目を瞑ってた方がいい? それとも何か手伝ってあげようか?」

「あのさ」

「何?」

「やめようよ」

 オレに組み敷かれていたミクリオが、「やめる?」とほんの少し顔を上げた。

「あ、いやごめん、ミクリオに言ったんじゃなくて」

 オレは慌てて手を振り、ミクリオの肩越しを睨んだ。

 ミクリオが自分からオレに求めてくることはほとんどない。ただでさえ天族は性欲が淡泊なのに加えて、ミクリオの場合は難攻不落の城塞の如きプライドが邪魔をする。オレに「抱いて」なんて強請るくらいなら舌噛んで死ぬんじゃないだろうか。

 でも、オレがミクリオに触れたくて触れたくてどうにかなりそうな時、早い話がムラムラしている時は、オレにあてられて体が疼くんだそうだ。そういうタイミングを見計らって二人きりになり(仲間に見られてもオレは全く構わないのだがミクリオが嫌がる)、真正面からミクリオの瞳を見つめ、名前を呼びながら耳を優しく噛んでやると、「がっつきすぎだ」とか「よくそんな恥ずかしいことが言えるな」とかあらん限りの憎まれ口を叩きながら、いかにも仕方ないと言わんばかりに自分の服のボタンをひとつひとつゆっくりと外してくれる。

 

 つまりミクリオがその気になってくれるかはオレのその時々の体の状態と創意工夫次第ということだ。細くて冷たくて柔らかい指がオレの頬をたどり、キスした時にミクリオの喉がわずかに鳴るのを想像しただけでたまらない。

 で、今のオレはまさに「ミクリオに触れたくて触れたくてどうにかなりそうな状態」のピークに達していた。

 ここ3日野宿続きだったし、少女の幽霊のお陰でろくに抱き締めてもいなかったし、ようやくとれた宿のベッドは雲みたいにふかふかで、おまけにザビーダは日課の夜遊びで出払っている。今ヤらなきゃいつヤるんだと大声で叫びまわりたくなるほどおあつらえの状況で、しかも目の前には風呂上りでかすかな石鹸の香りをふんだんにまき散らしている目にも鼻にも下半身にも毒なミクリオがいるのに、ああそれなのに、少女がいちいちコメントを差し挟んでくるせいで雰囲気ぶち壊しだ。幽霊とはいえ、年端もいかない少女の前で痴態を晒すのはさすがに倫理上道徳上問題がある気もするし。

 だけどもう我慢できないんだよな。悲しいことに。しょうがないんだよ、オレ、男としても育ち盛りだし、せっかくやる気になってくれたミクリオがいるのに手を出さないのは、ライラがダジャレをやめるより未踏の遺跡を諦めるのより有り得ないことなんだってば。

 うん。無視しよう。

 オレは性懲りもなく興味津々に覗き込んでくる少女の存在をシャットアウトしようと、頭の中でグリンウッド史の年号をひたすら唱えていた。だが、それが逆効果だったらしい。ミクリオが目をぱちくりさせたかと思うと、華奢な身体の一体どこにそんなものがと首を傾げたくなるほどの強い力でオレの胸を押し、裸のままベッドの上に起き上がった。

「スレイ。変だぞ」

 疑わしげなミクリオの声と、少女の「なーんだ、やめるの?」という台詞が重なった。

「この間から、正確に言えば8日前からずっと挙動不審だ。……何かあったのか?」

 ミクリオは裸のまま、ベッドの上で居住まいを正した。相変わらず傷ひとつない綺麗な身体にうっかり見惚れていると、呆けていると取られたのか、ミクリオがずいと膝を進めて来た。

「スレイ。何か気を遣ってくれているのなら、その必要はないよ」

ミクリオの瞳に、強張ったオレの顔が映っている。

「スレイ」

 その声色で、ミクリオはオレを責めるつもりもなければ、逃がすつもりもないのだと分かった。

 ミクリオの問い方はいつも、キャッチボールの下手くそな子どもをあやすみたいだ、とオレはぼんやり思った。ミクリオは面と向かって無理に問い詰めたりしない。オレがこのまま何も言わなければ、「……そうかい」とため息をついて一度退いてくれるだろう。でも、オレが渡されたボールを投げ返すのを、辛抱強く待っている。スローボールかもしれない。豪速球かもしれない。あるいは見当違いのところへ投げるかもしれない。受け止めようとして、自分が傷つくかもしれない。それでも、いつまでも待っている。

 オレは観念して、少女のことを洗いざらいミクリオに話した。ミクリオは目を見張り、きょろきょろと辺りを窺い、やがてみるみるうちに耳まで真っ赤になった。

「君、もしかしてその子の前で、僕をその……抱こうとしたのか」

「うん」

「どこまで心臓が強いんだ君は! 恥ずかしくないのか!? だいたい小さい子どもの前でそんな」

「へーきよ。こう見えても私、オバケ歴20年なのよ? あなた達よりずーっとお姉さんなの」

「威張られても困るよ……」

 ミクリオが小さく息を呑んだ。

「……僕と君が話しているのを、普通の人間が見た時はこんな感じなんだろうな。今も僕の後ろにいるのかい?」

「うん。背負ってる。あ、今あっかんべーしてる」

「ずいぶん呑気な幽霊だな」

 ミクリオは呆れたように息を吐くと、オレの指差した方を振り向き、その辺りの空間に触れた。オレから見ると、少女の鼻先とミクリオの鼻先がくっつきかけているので気が気じゃない。

「この辺りかい?」

「やだ、どこ触ってるのよ。エッチ」

「エッチだって」

「どういう意味だ!? 僕はどこを触ったんだ!」

「髪」

「変なとこでも何でもないだろ!」

「髪は女の命なのよ。分かってないわね、このお兄ちゃん」

 ミクリオは早々に抵抗を諦めたらしい。賢明だ。幽霊にまで弄ばれていると知ったらミクリオが憤死する。

「……とにかく、僕に憑いたということは、何かして欲しいんだろう。それを早く済ませて、成仏なりなんなりしてもらったらいいんじゃないか」

「それなんだけどさ、その子、全然話してくれなくて」

 少女は困り果てるオレ達を面白そうに眺めている。当事者の癖に何でこんなに他人事なんだ。

「いいのよ別に。私はこのままでも。あなた達、旅の人でしょ? お兄ちゃんにくっついていって、世界観光するのも悪くないわ。どうせあなたには見えないんだから、どっちだっていいじゃない」

オレが少女の言葉を復唱すると、ミクリオはわざわざ首を後ろに巡らせ、彼女を見据えた。

「ダメだ。君の居るべきところはここじゃないだろう。帰ってくれ」

「何でよ。邪魔しないわ」

「迷惑だ」

 ミクリオははっきりと言った。

「見えも聞こえもしないからといって、存在しないことにはならないだろう」

 オレの見間違いでなければ、少女の睫毛が一瞬、震えた。そして、そのまま黙りこくってしまった。

 彼女は考えあぐねるようにミクリオの髪を右手で弄っていたが、しばらくして、不意に笑った。

「人を」

「人?」

「人を捜してほしいの。私を殺した犯人」

 あのね。私、一人じゃ死んだ場所から離れられないの。そう。来る日も来る日もずーっとあの池の傍に座って通る人を眺めてたわ。え、夜な夜な旅人を引きずり込んでるって噂は何なのかって? そんなの、あのおっさんの大法螺に決まってるじゃない。その方が話が盛り上がるからよ。ほんと失礼しちゃう。こういうのをメイヨキソンって言うのよね。

 私を殺した相手? ううん、背格好はだいたい分かってる。時々通るのよ、目の前を。この辺りの町に住んでるってことも知ってるわ。だから後は、正確な居場所を突き止めてやるだけ。

「……捜してどうするの」

「どうもしないわ。20年も経てば大概のことはどうでもよくなるの。ただ、今どんな生活をしてるのか拝んでやりたいだけよ」

「オレ達が断ったら?」

「その時は、お兄ちゃんにくっついたままになるんじゃないかしら。私も人に……あ、このお兄ちゃんは人間じゃないんだっけ。まあいいわ。とにかく憑くのが初めてだから、私にも離れ方が分からないの。死んだら、『初心者のための正しいとり憑き方講座』でも開いて欲しいと思わない?」

 ミクリオが「彼女、何だって?」と尋ねてきた。

「……人を捜してほしいってさ」

 「殺人犯を」というのは伏せておいた。何となく、ミクリオにそのことを伝えるのは憚られたのだ。

ミクリオは頷いて、少女の捜している男の特徴と町の名前をノートに書き留めた。少女が口にした小さな町は、たまたまこれからの道程に組み込まれていた。思ったよりも早く済みそうだ。

 ミクリオが、ふと首を傾げた。

「それにしても、彼女、どうして君にしか見えないんだろう。どちらかというと、僕ら天族のほうが見えて然るべきなんじゃないか? 君の霊応力のせいか? でも、それだったらロゼにも見えて当然だろうし」

「確かにね」

「あら、気付かなかったの」

 少女は、何とも言えない不思議な笑顔で、オレを真っ直ぐ見た。

「似た者同士だからよ。私とお兄ちゃん」

 どうも最近は空がご機嫌斜めらしく、その町に着いたオレ達は突然の豪雨に見舞われ、いつかと同じようにほうほうの体で宿屋に駆け込む羽目になった。雨は時間が経つうちに激しさを増し、オレ達は一晩じゅう宿に閉じ込められていた。唸りを上げて窓を叩く雨音がありとあらゆる他の音を呑み込んで、自分達のいる部屋だけが世界に取り残されたみたいだ。

 その間、少女は窓の外をじっと眺め続け、ミクリオは彼女が外を見たがっていると知ると、窓を覗きやすいようにベッドを移動していた。本人は「壁際の方が本を落ち着いて読めるんだ」とか何とかわざわざ言い訳してたけど。

 兆候に気が付いたのは、オレではなくエドナだった。

 その時、オレはようやく雨が上がったばかりで、ロゼに引きずられて買い出しに出掛けていたため、事の顛末を後々エドナの口から聞かされた形になる。

 食堂に残り、今日も今日とておやつのレシピ開発に勤しんでいたミクリオは、隙あらばつまみ食いをしようとするエドナと必死の攻防を繰り広げながら間断なく手を動かしていた。

 ところが、そのうちエドナは邪魔するのをぴたりとやめた。急に大人しくなった清純派美少女(とエドナは自分で言った)に首を傾げながらも、ミクリオは特に気にかけることなくせっせと全員分のお菓子を作り上げたらしい。ミクリオの一挙手一投足を針の穴に糸でも通すような真剣さで見つめていたエドナは、重々しい手つきで完成したパルミエをつまんだ。

「……まあまあ及第点ってとこね。精進なさい」

「そりゃどうも」

「ところでミボ」

エドナはぐるっとミクリオに向き直った。

「アナタ、いつから右利きになったの?」

 利き手が変わったことを指摘されても、ミクリオにはその記憶がまるでないようだった。本人はあくまで左手を使っているつもりなのだ。「右手を? そんな筈はない」「嘘だと思うなら自分で確かめてみなさいよ」と押し問答をした挙句、ミクリオはいかにも合点がいかない様子で食堂を出て行った。

「妙なのよ、あの子。受け答えも何だかぼーっとしてたし」

 エドナの次の台詞が、オレを足元から震撼させた。

「まるで、誰かに身体を乗っ取られてるみたい」

 オレは買ったばかりの荷物を取り落とした。零れ落ちた果物やら消耗品やらがごろごろと床を転がってテーブルの脚にぶつかり、止まった。

「スレイ。アナタ、何も心当たりはないの?」

 オレはマントを翻して宿のあちこちを開けて回った。ミクリオはラウンジにも食堂にも表通りにもおらず、最後に男部屋を蹴破る勢いで開けると、一番奥のベッドからついさっきまで寝ていたらしいザビーダがむっくり起き上がった。自慢の長髪が四方八方無造作に跳ねてライオンのようだが、今はザビーダの寝癖のやんちゃ具合に言及している場合じゃない。

「ねえ! ミクリオどこか知らない!?」

「何だよスレイ、ミク坊と喧嘩でもしたのか? ドア壊すなよ」

「してないけど、急いでるんだ! 知ってたら教えて!!」

「散歩してくるって出てったぜ、ついさっき。まだその辺にいるんじゃねえの? ミク坊も若ぇのに趣味がお菓子作りと遺跡遊びと散歩ってジジむさくていけねえな、ありゃ早々に老け込むタイプだぜ。せっかくの美人なのにもったいない。俺様を見習って美女の一人や二人たらしこんで来いってお前から言ってやれよ」

 ザビーダに付き合っている余裕は微塵もなかったので、後半の台詞を無視して「ありがとう! じゃっ!」と素早く駆け出そうとしたオレは、ザビーダの何気ない呟きに引きずり戻された。

「まあ坊やにはまだ荷が重いかもな。猫と女は祟るし」

 オレは凄い勢いでザビーダの方を振り返った。

「……何で?」

「女の方が賢いからさ。男は馬鹿な生きもんだから、惨い仕打ちをされても覚えちゃいねえ。地獄か天国に行けりゃ万々歳ってなもんだ。だが女は迷う。自分がされたことを、そして自分がしたことを覚えてる。いつまでもだ。まあ、恨み骨髄って奴だな。人間も天族もそれ以外も関係ねえよ、女は生まれ落ちた瞬間から女だ」

 少女の意味ありげな微笑が、脳裏に浮かんだ。

「だから女の子には恨まれないようにしとけよ~って話……どうしたスレイ、その顔」

 ……まさか。

 まさか。

 やけに生ぬるく、じっとりとまとわりつくような湿気が鬱陶しい。暮れなずむ空の下、至るところに水たまりのできた大通りは人もまばらで、オレが思う存分泥水を跳ね上げて全力疾走しても見咎める者は誰もいなかった。さっき出て行ったばかりのはずのミクリオの姿は、影も形もない。

 どこに行ったんだ、あいつ。

 荒い呼吸を宥めながら足元を見ると、ぬかるんだ地面に点々と小さな足跡が残っていた。足跡は宿の前から始まり、町の外れにある林道に真っ直ぐ向かっている。迷いなく伸びたそれをたどっていくと、一軒の家が人目を憚るようにこじんまりと建っていた。中からぼんやりと明かりが漏れている。オレはドアをノックしようとして、窓から覗いた情景にぎょっとした。

 生活感のまるでない部屋の中央にはベッドが設えられており、頬のこけた男が横たわっている。その傍らに、ミクリオが座っていた。俯いたまま、無表情で眠り込んでいる男の顔をじっと見つめている。ただでさえ息を呑むような美貌がランプの光に照らされて、ほとんどこの世のものとは思えない。

 ミクリオがゆっくりと、男に向かって手を伸ばす。

「ミクリオ!!」

 限界まで開け放たれた扉が勢い余ってガンと壁にぶつかり、ミクリオがはっと振り返った。結構な音を立てたのに、男は指一本動かさない。

 ミクリオはオレの姿を認めると、柔らかく微笑んだ。

「どうしたんだい、スレイ?」

「どうしたはこっちの台詞だよ。……何でこんなところにいるの?」

「彼女が捜していた男を見つけたから、追いかけてきたんだ。何も言わずにすまない」

「……あの女の子は?」

 ミクリオの肩口には、もうあの少女の姿は見えない。

「消えたよ。気が済んだんだろう。僕もすぐ宿に戻るから、君は先に」

「とぼけるなよ」

 自分でも驚くような低音が出た。

「ミクリオの身体を使って、何をするつもりだった?」

 ミクリオが弾かれたように黙った。天族でも、意識しさえすれば人間に触れることはできる。そうでなくても、氷の破片ひとつ作れば、眠っている男の首くらいかっ切れるだろう。ミクリオなら。

 ミクリオは……というより、ミクリオの中にいるであろう少女は瞬きもせずにオレを見つめていたが、「もうバレちゃった」といたずらっ子のように屈託なく笑いながら優雅に足を組んだ。

「しばらく見てて、完璧に真似たつもりだったんだけど。やっぱり難しいわね」

 少女はオレの剣幕にもびくともしなかった。

「やだぁ、そんなに怖い顔しなくたっていいじゃない。ほんの少し借りただけよ。このお兄ちゃんの意識も眠ってるだけ。すぐに返してあげる」

「全部嘘だったのか?」

「……ほんとよ。この人がれっきとした殺人犯。そして、私の弟」

 ランプの火が大きく揺れた。風もないのに。

 彼女が死んだ日、姉弟は遊泳禁止の池の前をてくてく歩いていた。おつかいの帰りで、「森は危ないからどこにも寄り道せず帰ってきなさい」という母親の言いつけを遵守すべく、弟の手をひいて颯爽と家に急いでいた。

 好奇心旺盛な弟が池に何か浮かんでいるのを見つけたのが災いの元だ。弟は姉の手をふりほどき、池の傍まで行って屈みこんだ。連れ戻そうと揉み合っているうちにたまたま、本当にたまたま、弟の腕が強く彼女にぶつかった。底の見えない池に落ちたのは、泳げない彼女にとって文字通り命取りだった。パニックに陥った幼い弟は、こけつまろびつ大人を呼びに駆けて行った。そして、戻って来た時にはもう手遅れだった。

 生きている彼女が最後に見たのは、水面に照り映える夕日の鈍い鈍い赤。

 誰を責めることもできない単なる事故だ。だが、弟は咎められるのを恐れた。姉は暴漢に襲われ、池の中に沈んだのだと大人達にたどたどしく説明したのだ。自分は命からがら逃げのびて、助けを求めたのだと。

片手の指で数えられるほどしか生きていない少年の、実にささやかで、浅はかな嘘だった。しかし、一度きりの嘘が弟の心に影を落とし、抉るように根を張った。何よりも深く。

「弟は何度か池までやって来たわ。その度に地面に頭を擦りつけて泣き叫んだ」

 お姉ちゃん。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。どうか僕を許して。

 池の幽霊の噂が広まるにつれ、弟の情緒不安定はますます酷くなった。懺悔をし続ける弟を、彼女は20年間ただただ見ていたのだ。死に場所から離れられないまま、ずっと。

 お姉ちゃんは怒ってなんかいないの。憎んでもいない。

 私は弟を助けてあげることができない。ずっとここにいたのに。

 今もここにいるのに。

「気づいてもらえないってとっても寂しいのよ。大切な人なら尚更」

 ……そうか。彼女は、弟に気が付いて欲しかっただけなんだ。

 でも。

「出てって」

 少女が顔を上げた。

「出てって。ミクリオから、今すぐ」

 オレは静かに告げた。

「……あとちょっとなの。あとちょっとでこの子が目を覚ます。それまでは」

「ミクリオの顔と声で喋るな」

 少女の瞳が揺れ、オレは彼女に心の底から同情した。同情したが、だからといって何も知らないミクリオを利用していい理由にはならない。彼女の言い分は、戦場で生まれて初めて霊応力が遮断された時のことを思い起こさせた。あの、身を切られるような痛みと絶望を。

 オレが、ミクリオが見えなくなったことに動転しまくっていたちょうどその時、ミクリオは何度も何度もオレを呼び、どうあがいても声が届かないと分かると一言も喋らなくなった。かわりに、黙ったまま祈るような目をしていたんだそうだ。延々と。

 もちろん、ミクリオから直接聞いた訳じゃない。オレに教えたのはエドナだ。珍しく買い出しについてきたエドナとふたり並んで歩いていた時、エドナが店の前に並んでいるお菓子だの特産品だのアクセサリーだのをいちいちあーでもないこーでもないと品定めしながら、さも今思い出したかのように口にした。

 霊応力は、アナタが思っている以上に繊細なものなの。小さい頃は妖精が見えてたのに、大人になるうちに見えなくなったなんて話はよく聞くでしょ。ちょっとしたきっかけでワタシ達と意思疎通ができなくなる可能性だってゼロじゃない。実際、ロゼもお化け嫌いのせいでデゼルが見えなかったんだしね。

 もしかしたら永遠にオレと隔てられるかもしれないその瞬間に、ミクリオはただ祈り続けていたのだと、エドナは言った。ミクリオはそういう奴だ。目の前の情報を速やかに処理して、的確に、確実に、その時の自分にできる最善の道を選べる奴だ。そうしていつの間にか目指すところにたどり着いているような奴だ。ミクリオの悲痛な願いが、本来よりもはるかに早く、オレの霊応力を取り戻させた。

 エドナはまるで、他愛ないお喋りの延長線上のようにさらりと言った。

 スレイ。アナタ、愛されてるわ。知ってたでしょうけど。

 たとえあの子が今後どんな人生を歩むんだとしても、あの子の中からアナタを取り除くことはできない。一生。誰もその領域に踏み込むことはできないの。長い付き合いになるだろう、ワタシ達でさえ。人同士の関係って、時間の積み重ねで測れる訳じゃないもの。

 分かるでしょ? アナタなら。

「これが最後の忠告だよ。聞き入れて貰えなければ、オレは何するか分からない」

 オレはベッドの上の男を一瞥した。終わりの一言が効いたのか、少女が椅子から立ち上がり、一歩後ずさった。

「……どうしてよ。何が悪いの。気づいて欲しいだけなのに、それの何がいけないの。あと少しなのに。どうして待ってくれないのよ」

「他人を使って何かを伝えても、君自身が伝えたことにはならないよ」

「イヤよ」

 少女の声が涙で滲み、オレは儀礼剣の柄に手をかけた。

「自分の身体で会いに来たらいい。人でも動物でも木でも虫でもモノでも、その方がずっといいよ」

 オレがもしもミクリオと同じ立場だったら。

 オレがミクリオと同じ立場で、見ても聞いてももらえず、万が一永久に再び顔を合わせる日が来なかったとしたら、何がなんでもミクリオと言葉を交わそうとするかもしれない。たとえ、何かの禁を犯してでも。人の好意に胡坐をかいてでも。

 そう前にぽろっと漏らしたら、ミクリオから「100%有り得ないことを仮定するだけ無駄」とあっさり一蹴された。「そんなことに頭と時間を使うくらいだったら布団被って寝たほうが千倍マシだ」という考え方は、いかにもミクリオらしかった。

 君が僕の立場だったらなんて、今更言っても始まらないよ。君は君で、僕は僕であるしかない。

ほら、分かったら前を向けよ。君はずっとそうしてきただろう? たとえ見えなくても、声が届かなくても、後ろには必ず僕がいるから。

 前だけを。

 ただそれだけを。

「あなたなら分かってくれると思ってたのに」

 ミクリオの声が、少女の声とだぶった。

 ああ、そうか。似た者同士っていうのは、そういう意味か。

 でも、ごめん。君とオレは、やっぱり違うよ。

 オレはミクリオがいる限り、一線を越えなくて済む。可能性を信じ続けていられる。

 

 

 

 オレの背中の上で、ミクリオは目を覚ました。

 既に夕餉の時刻だからか、そこかしこの民家からさざめくような笑い声と竈で飯を炊くいい匂いが漂ってくる。

 オレにおぶさっていると気づくと、ミクリオは驚愕してがばっと上半身を起こした。

「何で君に背負われてるんだ?」

「……お前は外で本読んだまま寝てたんだよ。オレが迎えに来たの」

「降りる」

「降ろさない」

「どうして」

「オレがこうしてたいから、かな?」

 「何だそれは」とか「自分で歩ける」とかしばらく喚いていたが、がっちり脚を掴まれてどうにもこうにも身動きできないと悟ったらしいミクリオは、諦めてぽすんとオレの背中に顔を埋めた。

「……周りから見たら変に思われるだろ……」

「思われてもいいよ、別に」

 服越しに感じるミクリオの体温と、頬の感触。何度も触れて、自分の肌よりもずっと馴染んだ熱さ。

オレはミクリオを抱え直した。軽いな。

「ミクリオ」

「何だい」

「好きだよ」

 ミクリオは虚を突かれたように一瞬口を噤み、オレの背中にほっぺたをくっつけたまま、もぞもぞと「……僕もだよ」と呟いた。

 

 ひとりぶんの影が明かりに照らされて長く長く伸び、オレ達は宿までの道を「今日の晩ご飯は何かなあ」なんてどうでもいい話をしながら、ゆっくり歩いた。

 

 

 

end

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