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※引き続きモブミクが入りますので、苦手な方はご注意ください※

 

 さぞ栄華を極めたんだろう、昔は。

 呼びつけられた古城は、手入れをする人間がいなくなった今でも鬱蒼と茂った木立の奥にひっそりと佇んでいた。城門はとっくに朽ち果てて門の体を成しておらず、石壁には蔦が縦横無尽に這い回っている。いかにも冒険好きのやんちゃ坊主が忍び込みそうなザ・廃墟だ。

 

 城の入り口は生き物のように大きく口を開けており、奥の方は暗がりになっていて吸血鬼の視力をもってしても見えない。

 実際に生きているのだ。何百年も前に内側で暮らしていた住人達の息遣いを、腹の中に飼っている。誰にも顧みられなくなった建物とはそういうものだ。

 そして、見知らぬ誰かが訪れるのをいつまでも、いつまでも待っている。

 

 ザビーダはひととおり周囲を見渡すと、正門ではなく、これまた草が好き放題生い茂る裏手の方に回った。「正門からのびる通路は盗賊や浮浪者にあちこち荒らされていて危なかったから、裏の勝手口からいつも入っていたんだ」とミクリオが話していたからだ。

 ミクリオがその話をする時は例外なくスレイの想い出話とセットだったが、それでもザビーダは毎回飽きずに聴いていた。スレイの話をしている時のミクリオは、本当にいい顔をする。

 

 それなのに。

 

 勝手口の壊れたドアから城の厨房に入ると、埃の積もった棚と棚の間をざっと鼠が数匹横切っていった。

上から漏れてくる、何かが軋むような音。かすかに聞こえる嬌声と、まとわりつくような生臭いにおい。どっちにも覚えがある。……三階か。

 迷わず廊下へ繋がる扉を開けた。ぼろぼろになった絨毯や壺の破片を容赦なく蹴飛ばしなながら長い長い通路を真っ直ぐ進み、二階に上がったところで上階から聞こえる音が止んだ。

 気付かれたか。だがミクリオを傷つけることはしないだろう。

 自分が男と同じ立場なら、憎い相手が現れる前に人質をやすやすと潰すような勿体ない真似はしない。

 

 三階の客室のドアを開け放つと、ベッドの上に影が二つ。

 

「……やあザビーダ、久しぶりだね。君に会いたかったよ。片時も忘れたことはなかった」

 男がゆっくりと上半身を起こした。上は裸のままだが、下半身にしっかり衣服を身につけているところからして、やはり自分がやって来たことに早くから勘付いていたらしい。

 ミクリオは乱れたシーツの上でぐったり仰向けになったまま目を閉じている。さらけ出された胸や腹に乾いた精液がこびりつき、白い脚の間からごぽりと液体があふれた。

「……っザ、ザビーダ……? なん、で……」

 ようやく薄く目を開けたミクリオが、浅い呼吸の合間に掠れた声を漏らした。

 蹂躙されたミクリオの体を見ても、ザビーダは顔色ひとつ変えない。

「男に好かれても嬉しくねえな。大体うちの従業員をナンパしたいなら雇用主に話を通してもらわねえと困るぜお客さん。うちはそういういかがわしい店じゃねえの、健全でまっとうなカフェなの。立派な営業妨害だ」

「私の知る限り君は従業員を雇わない主義だったはずだが、どういう風の吹きまわしかな」

「お陰様でこう見えても人気店だからな。猫の手も借りたくなったのさ」

「ただの猫にしては、ずいぶん入れ込んでいるようじゃないか」

 足元でカツン、と冷たい音が鳴る。その途端、男がミクリオを抱きすくめた。

「おっと、動いちゃいけないよ。分かってるとは思うが、この子は私の意のままだ。今ここで息の根を止めたっていい」

 ザビーダがそれ以上動かないのを確かめてから、男は満足げに笑みを漏らした。なす術もなく男の胸に額を押しつけ、震えるミクリオの顎を指で持ち上げる。

「……今時珍しい、身も心も清らかな子だ。中もいい具合だね。君好みに仕上げたのかな?」

 男がぎゅっと目を閉じたミクリオを引き寄せ、唇を乱暴に舐めた。舌を引きずり出し、絡める度にびちゃびちゃと粘ついた水の音がする。

 これ以上感じたくないのに、無理やり高められ何度も絶頂に放り出された体は恨めしいほど敏感に反応する。

「ふ……っく……! い、いや……だ……。みな……いで……」

 男はそのまま首、鎖骨、胸、腹と見せつけるようにキスマークをいくつも散らしていく。音を立てて吸い上げられる度、必死で歯を食いしばっているミクリオの肩が跳ねた。

 ザビーダはさっきから一言も喋らない。目を閉じる直前に見たザビーダの表情は、まるでいつもと変わらなかった。

 ただ、怒っても笑っても悲しんでもいない。その平坦さが、ミクリオには至極恐ろしかった。

「君はそこで指をくわえて見物しているといい。愛する者が犯されるのを。ああ、混ざってくれてもいいよ。お好みなら」

 男はミクリオを膝の上に抱えると、これ見よがしに脚を大きく開かせる。

「ごらん、勃ってるじゃないか。ほら、彼によく見えるようにしてあげないと」

 もうやめてくれ、と恥も外聞もかなぐり捨てて叫びたくなった。ただ犯されるだけならまだ我慢できた。

 でも、ザビーダの目の前で他の男に、それもザビーダに激しい敵意を燃やしている男に抱かれてよがるなんて想像しただけで自分で自分の首を絞めたくなる。

 

 彼は今どんな顔をしているんだろう。知りたくない。こんな浅ましい姿、きっと軽蔑される。それだけは嫌だ。

「ミクリオ」

 黙りこくったままだったザビーダが、ようやく口を開いた。

「心配すんな。あと少しだけ、いい子にしてろよ」

 天井から鼠の走り回るような音がする。人間では気付かないような、ほんの小さな小さな音だったが。

「君に何ができる」

 男が嘲るように笑った。

「それ以上はやめとけよ」

「私への警告ってわけか。ご親切痛み入るね」

「誰があんたに言ってる」

 ザビーダが不意に上を見上げた。年季が入りすぎて崩壊しないのが不思議なほどの天井に、真一文字に亀裂が走る。

「あんたよりもっとずっと手強い奴さ」

 その途端、男の背後の天井が崩れ落ちた。崩落とともに上から降りてきたエドナが、轟音に驚いた男が振り向く前に、その背中を傘で思い切り突き飛ばした。

「パーティー会場にしてはショボいわね」

 すかさず駆け寄ったザビーダが咳き込む男を頭の上からねじ伏せ、弾みで男と一緒に倒れこんだミクリオをエドナが引っ張り出す。舞い上がる粉塵は傘で防いだ。

「黙ってついてくるとは人が悪いぜ、エドナちゃん」

 何事か吠える男の後ろ髪を掴み、床に叩きつけておいてからエドナの方を振り返った。エドナは、気を失ってしまったらしいミクリオにシーツを被せている。

 さすがにかび臭いが、素っ裸よりマシだろう。

「偶然ワタシの前をあなたが歩いてただけよ。それに人が悪いのはお互い様でしょ」

 エドナがザビーダの行き先に気付いたのは本当にたまたまだった。ミクリオを捜そうにも手がかりがなく、途方にくれかかったところで店からぞろぞろ出てくる常連達を見つけ、ひっ捕まえて事情を聞いたのだ。

 

 どうせ一人で全部片をつけるつもりだったんでしょうけど、お生憎さまね。船頭に降りろと言われたからって乗りかかった船から素直に降りてあげるほど、ワタシはお人好しじゃないのよ。

 

「あなたの言うことなんか、一から十まで信用してないわ」

「つーか、もう俺の顔を見たくないんじゃなかったっけ?」

「女心は変わるのよ」

 そいつはどうするの、とエドナが顎をしゃくった瞬間、全身の血が粟立つような低い笑い声がした。

 歯の一、二本は確実に折れているはずの男が、唇の端からだらだら血を流しながらおかしくておかしくてたまらないと言わんばかりに笑い続けている。

「……なによ」

「これで終わるとでも思ったのか」

「あら、負け惜しみ?」

 男はザビーダに頭を押さえられている。視線が真っ向からぶつからないようにだ。目が合えば魔女だろうが吸血鬼だろうが操り人形に早変わりする。

「その子にかけた催眠が解けた訳じゃない。術を解くか、私が死ぬか。それまでその子は私のオモチャだ」

「あ、そ。じゃあ目ぇ潰すか。ちょっと痛いだろうが、それくらいがイイだろ?」

 「帰りに一杯引っかけてくか」と全く同じ軽い口調に、エドナはザビーダの横顔を信じられない気持ちで眺めた。エドナの記憶にあるザビーダは、兄と酒を酌み交わしてはバカやってる姿ばかりだ。

 たまに兄と殴り合いの喧嘩もするにはするが、あくまでじゃれ合いの範囲。その度に些細なことで延々噛みつき合う男二人を「でかい図体の癖にほんとガキね」なんて呆れて見守っていたものだが。

 

 こんな姿、初めて見る。

 

「悠長に拷問なんかしている暇があるかなぁ」

 男はザビーダの脅しにも動じなかった。それどころか、ますます笑みが深くなる。

「がっ……あ……っ!?」

 気絶していたはずのミクリオが苦しげに呻いた。エドナがはっと気づくと、膝の上に載せていたミクリオの頭がずるずるとずり落ちた。自分で自分の首に手をかけている。

「「ミクリオ!!」」

 エドナが必死でミクリオの指を外そうとしたが、びくともしない。なんだこれは。まるで岩のようだ。募る焦りで、掌に汗が滲んだ。

 みるみるうちにミクリオの顔が青ざめていく。

「どうして剥がれないの……!」

 初めてはっきりと舌打ちをしたザビーダがミクリオに気を取られた隙に、男は素早く身を起こした。

 

 油断した。

 その一瞬で、男の目とザビーダの目が、確かにかち合った。

「……最後の楽しみにとっておくつもりだったが」

 男がゆらりと立ち上がるのと、ミクリオが糸が切れたように床に倒れこむのとはほぼ同時だった。急いでミクリオを助け起こして、エドナはほっとした。

 大事には至っていない、再び眠りに落ちただけだ。

 死なないとはいえ、頸動脈を締め上げられるのは尋常じゃない苦痛だろう。

 

 白いシーツにくるまれてか細い寝息を立てるミクリオの上に、影が差した。

 見下ろしてくる、血の色の冷たい瞳。

 息を呑んだエドナが立ち上がり、ミクリオを背に庇う。まさか……まさか。

「その子を殺せ」

 男は赤い唾を吐くと、床に転がっていたミクリオのナイフを拾い、エドナとミクリオの前で物も言わず立ち尽くすザビーダに投げてよこした。カランと乾いた音が鳴り、ナイフが足元に転がる。

「忌々しい魔女。さっさとどいた方が身のためだぞ。私は吸血鬼専門の狩人だが、邪魔をするなら誰だろうと容赦はしない」

「……だめよ」

 エドナは首を振り、両手を大きく横に広げた。ザビーダの瞳からは感情というものがごっそり削ぎ落とされている。前に一瞬だけ見た、あの男の目と同じだ。氷の塊でも放り込まれたように背中が冷たいのに、頰は熱い。足が竦んでいないのが不思議だった。

「絶対だめ」

 何があってもミクリオを傷つけさせる訳にはいかない。だが男はさっき何と言った? 術を解くか男が死ぬまで催眠から目は覚めない。

 魔法で目くらまし程度のことはできるかもしれないが、ザビーダがもし本気になったらミクリオを守りきれる自信はまるでない。ましてや相手は一人じゃないのだ。

迷っている間にも、ザビーダはナイフ片手にまた一歩近づいてくる。

「ふふ……ははは! 愛する者を自分自身の手で屠る! おまえには似合いだ!! あははははははは!!!」

 耳障りな哄笑を背にしたザビーダが小さく口を開いた。

「エドナ、逃げろ」

 そういえば操られていても本人の意識はあるんだった。

「イヤよ」

「怪我するぜ」

「それでもイヤよ」

 もう一度、強く首を振った。ここで引いたら自分を責め続けることになる。おそらく一生。

 エドナは覚悟を決め、こっそりと魔法の発動準備を始めた。ミクリオが目を覚ます気配はない。

 あの男は自分の立てた計画に異様にこだわるタイプのようだ。自分とミクリオだけが逃げたとしても、ザビーダを即座に叩き殺すということはないだろう。

 でも、可能なら。

「しっかりしなさい、あなたはあんな奴に使われる男じゃないでしょ!」

「ああ」

 白い刃が煌めいた。

「なんだかんだ俺のこと信用してくれてんじゃん、エドナちゃん」

 風を切る音。勢いよく噴き出た血が、壁に点々と赤黒い染みを作る。

「は」

 男の笑い声が止んだ。出来損ないの絡繰りのように、ギギッと音を立てて視線を落とす。瞬く間に男の目が大きく見開かれた。何が起こったのか全く分かっていないのが見てとれる。

 ザビーダの投げたナイフは男の首の皮を削ぎ、石壁に当たって落ちていた。

「さすがにミク坊のようにはいかねえな」

 ミクリオならこの距離で外しはしない。何度も一人で練習しているのを見かけた。

 見られるのが恥ずかしいのか練習はザビーダのいない時間に限られていたから、一体何が恥ずかしいんだ、自分の街を守るためなんだしもう骨の髄まで染みついた習慣だろうから堂々と胸張ってやればいいだろと言ったら照れるから嫌だ、と膨れていた。

 そんなミクリオを前にすると無性に眩しいような思いっ切り抱きしめたくなるような、妙にくすぐったい気持ちになった。

 

 それにしても、ミクリオが気を失っていてくれて助かった。ここから先はあいつの目に入れたくない。

 

 エドナがその場にへたり込んだ。行き場を失った魔力が火花となって散り、空気に溶ける。

「……騙したのね」

「結構役者だったろ?」

 やっと事態を把握はしたが理解できていないらしい男につかつかと歩み寄り、ガンと顎を蹴り上げた。尻餅をついた男がどくどく血の溢れ出す首を押さえて後ずさり、みっともなく喚き散らす。

「どうして効いていない! 確かに術をかけたはずだ、私の催眠が効かないなんてありえない!!」

「さあな。それだけ頭に血が上ってたってことじゃねえの。あんたの目を見たと認識できないくらいに」

 男が歯噛みし、床に転がっているナイフに性懲りもなく手を伸ばす。その右手を強かに踏みつけた。指がいかれたかもしれないが、この程度で終わると思ってもらっては困る。まだ足りない。

「あんたが、それに、触るなよ」

 口ぶりこそ淡々としているが、軋む手首とのたうち回る男を見下ろす目は酷く醒めている。

「それはあいつが故郷を守るために使ってるもんだ。軽々しく触れるんじゃねえよ」

 そうだ。ミクリオの武器は人を守るためのものだ。

 だから、壁に飾ってあったぼろぼろの剣をわざわざ引き抜いた。

 人助け以外のことに使うべきじゃない。こんな……人の首を切り落とすためなんかに。

「喧嘩ならいくらでも買ってやるよ。俺もその方が楽しいしな。だが、喧嘩ってのは正々堂々やるもんだ。そうだろ? あんたはそのルールを破った」

 ザビーダは男の首を掴み、耳元で囁いた。

「認める、あの時あんたを生かしたのは間違いだった。俺のミスだ。俺が責任を取る」

「私を殺すか? 本性を現したな。化け物が」

 血に濡れた男の笑みは、狂気とも恐怖ともつかないもので醜く歪んでいる。

 大きく息を吐いたのは、自分を落ち着かせるためじゃない。ただの準備だ。

「……そうだな。あんたの言う通り、俺は化け物だ。だが、外れちゃならねえ道は同じだろ」

 

 ザビーダは人間が好きだった。本当に好きだった。

 

 たとえ天災や戦争で街と生活が粉々に粉砕されても、3日後には路上でたくましく商いをするような人間の強さが好きだった。葬式で、故人の想い出を口にして笑い合いながら涙を零す人間のあたたかさが好きだった。限られた人生の中で、愚かでも、弱くても、それを変えたいとあがく人々を愛してやまなかった。

 

 彼女を失ったように、どん底へ叩き落とされるような地獄の日々があっても、会えて良かったと思える奴は必ずいる。この街でミクリオやスレイのような面白い男に巡りあえたように。そしてまた想い出という名の宝が増えていく。

 それが嬉しくて、楽しくて、いつの間にかこんなところまで来てしまった。

 

 だから、この男の生き方を肯定するつもりは全くなかったが、否定するつもりもなかった。

 これは業だ。誰に何と言われようと、倫理や道徳から逸脱していようと、そういう生き様しか選べない。その意味ではこの男も自分も同じ穴の狢だ。単純に相容れなかったというだけで。

 たまたま交わった道の曲がり角でぶつかり、互いに譲れなかったというだけで。

 

 そして男は一番越えてはならない一線を越えた。貶めるためだけに、他人のかけがえのないものを踏みにじった。

「おまえは人と生きるべきじゃない」

 男の言葉が耳の後ろに絡みつく。

「どんなに人間のふりをしようが怪物は怪物だ。この世に生きる価値もない残忍な不死者だ。その性はごまかせない。いつか周りを不幸にする。必ず」

 剣の刃を返し、男の首にあてがった。刃のこぼれた剣じゃ、普通一太刀で切り落とせない。斬られた方が無駄に苦しむことになる。だが、自分の腕力なら大丈夫だろう。純粋な人間の命を奪うのは久しぶりだってのに、とっくの昔に錆びついた記憶を掘り起こす前に体内の血が騒いだ。

 静かに、手に力を込める。

「そうかもな」

 ……本当にそうかもな。

「15年か。人間にとっちゃ15年は長いよな。……いい加減地獄に送ってやるよ」

 

「ちょっと待ちなさい、ザビーダ」

 

 剣を振り下ろそうとしたまさにその時、エドナが服の裾を強く引っ張った。手元が狂ったせいで刃先が床にガランと音を立ててぶつかる。

「邪魔するなよ、エドナ」

「邪魔してるのはワタシじゃないわ」

 エドナがちらりと後ろを見やった。

「この子、気絶してる癖にさっきからワタシの手を握って放さないのよ。掴みたいのはワタシの手じゃないと思うけど。この意味、分かるわね?」

 エドナは自分の右手を握りしめているミクリオの手の甲をそっと撫でると、視線をもう一度ザビーダに戻した。

「それがあなたの望みなの?」

 エドナが深く息を吸った。

「だったら止めない。そいつを煮るなり斬るなり縊るなり頭蓋骨引っこ抜いて燭台にするなり好きにしなさい。どうせあなた、ワタシが何か言ったところでやめたりしないものね」

「言ったろ、俺の責任は俺が取る。それにどのみちこいつを殺さなきゃミク坊は元に戻らねえんだ」

「そんなこと言ってるんじゃないわ」

 窓から差し込む光がわずかに翳った。もうじき日が暮れる。

 全てを塗り潰す闇が来る。

「あなた、前に会った時から少しは変わったと思ってた。実際に変わったわ。自覚あるでしょ? でも、結局同じ。怒りに駆られてその男を手にかけたりしたら、あなた、また自分に負けるのよ。ただの怪物に逆戻りでしょ。もしそうなったら悲しむのは誰だと思ってるの」

 

 ミクリオのためでも、他の誰かのためでもなんでもない、自分の感情に身を任せて斬ろうとしてるんじゃないの。吸血鬼の本能に逆らえず、彼女を失った時と何が違うの。

 

 そうエドナは言っている。旧知の間柄であるエドナの手厳しい物言いは、ザビーダを半端なく揺さぶった。

 ……そうか。

 そうだ。二の轍は踏まないと誓ったはずだ。もう誰も傷つけたくないと。

 それなのに、いま一番傷つけたくない奴を傷つけてどうする。

 ザビーダは剣を無造作に放り投げた。

「……どーも、エドナちゃん。助かったぜ」

「別にあなたのためじゃないわ、勘違いしないで。子どもに泣かれるのは苦手なの」

 途端に、男がわなわなと震えだした。てっきり命拾いした安堵にうち震えているのかと思ったが、そうじゃなかった。

「……どうして斬らない」

 男の表情には、見たこともないような激しい怒りが滲んでいる。

「どうして私を斬らない! 15年前もそうだ、貴様は私を殺さなかった、吸血鬼らしく八つ裂きにすればいいものを躱すだけ躱して私の誇りを傷つけた! 貴様に名誉もプライドも信用も奪われ挙句の果てに情けをかけられる!! これ以上の屈辱があるか!!!」

 男は潰れた右手でゆっくり這いずると、まだ無事な方の手でさっき捨てたボロい剣を取り上げた。

「私は狩人だ。死んでもだ。化け物の情けを受けるくらいなら」

 瞬きをする間もなかった。

 派手に赤い飛沫が上がり、顔と服に血が飛んだ。エドナは素早く傘でそれを遮っていた。おそらくミクリオにかからないようにするためだろう。

 自分の首をかき切り、事切れるその最期の瞬間まで男はひたとこっちを見据えたまま笑っていた。怒りか、愉悦か、その両方か、もしくはもっと別の何かが潜んでいたのか、男が動かなくなっても結局分からなかった。

 

 ザビーダは頰についた血を手の甲で拭うと、踵を返した。

 早くミクリオを連れてここを離れよう。もう手遅れかもしれないが、この城があいつの想い出の場所から血生臭い悪夢の象徴になる前に。

 

 

 

 

「謝るところはそこじゃないと思うけど?」

 

 三日三晩72時間こんこんと眠り続けてからやっと目を覚ましたミクリオは、思った以上にピンピンしていた。そのミクリオに「巻き込んで悪かった」と神妙に伝えたらこの返事。

「座って」

 ミクリオに命令されて、椅子を引き寄せた。

 見た目は元気そうだし言動もいつも以上にはきはきしているが、平気な訳がないだろう。慎重に言葉を選んだつもりだ。煙に巻くための台詞なら浜の真砂のようにどっさり出てくるが、こういう時に何といえばいいのかこの期に及んで分からない。

 無数の砂の中から選り抜いた一粒が、今のこいつにとっては礫になるかもしれない。

「そこじゃなくて、ここ」

 ところが、ミクリオが重々しく指差したのは椅子でなく、その30cm下の床だった。

「え、まさか床に座れって?」

「まさかじゃなくて床だ」

 「なーんてね」とミクリオが続けてくれそうもなかったので、ザビーダはとりあえず言われるまま床の上に座った。ミクリオ自身はベッドの縁に座って腕を組む完璧な説教スタイルだ。

 

 床に正座させられるなんて人生もとい吸血鬼生で初だ。とどのつまりそれだけのことをやらかしたということだが、ミクリオを見上げるなんてことは滅多にないのでなんだか新鮮な気持ちになった。普段は頭ひとつ分以上身長に差があるが、今や形勢が逆転している。

 まあ迫力は全くないが。

「どうして僕に言ってくれなかったんだ」

「……何を」

「あの男に狙われてるってこと」

 ミクリオがため息をついた。

「余計なことを言うとお前さん、気にするだろ。それに昔のことだ、俺が始末をつけねえと」

「そんなのフェアじゃない」

 ミクリオは予想通りの台詞を吐くと、火を噴きそうな目をこっちに向けた。

「そのことを知っていれば、もしかしたら、僕は……」

 今日は初体験が多いな、と一瞬場違いなことを考えた。初めてだ。ミクリオが本気で怒っているのは。

 

 いつもからかえばぎゃーぎゃー噛みついたり拗ねたりしてはいるが、怒ってる訳じゃなかった。怒るにしても、ザビーダが事情をよく知らない外の人間から「吸血鬼が棲んでるなんて」と陰口を叩かれた時や、善良な市民が金持ちに食い物にされた時くらいだった。その怒りが今、何倍もの激しさでザビーダに向けられている。

 

 当たり前か。当たり前だ。怒らない方がおかしい。

 ミクリオにとっちゃ訳の分からない男に訳の分からない因縁をつけられて攫われ犯され自由を奪われ、酷い目に遭わされたのだ。さぞ怖かっただろう。

 頭を垂れて反省しなきゃならない立場だというのに、瞳の中に花が咲いているような紫色が興奮のせいで恐ろしいほど澄み切っていて、うっかり見惚れた。

「そうすれば……僕は、僕が……君を苦しめることはなかったかもしれない」

 ミクリオが掴んでいる二の腕にぎゅっと力を込めた。

 今、何て言った?

「あんな奴にただ利用されて、君を苦しめることはなかったかもしれない。力不足かもしれないけど、一緒に戦うことはできたかもしれない」

 ミクリオの指がかすかに震えている。

「血の気が引いたよ。君があまりにも平気そうに振舞ってたから」

 俯いてしまったせいで表情はよく見えないが、瞬く度に長い睫毛が揺れた。

「君が気にかけてくれていることも、言えることと言えないことがあるのも分かってるつもりだ。それはありがたいと思ってる。でも……受け取るだけなのは嫌だ。それじゃ本当にただの子どもじゃないか。僕は僕なりに、君に何かを返したい」

 

 ……ああ、なんだ。俺じゃねえのか。

 ミクリオが怒ってるのは、俺に対してじゃねえのか。

 ミクリオは、あくまで、何もできなかった自分自身に怒ってるんだ。

 

 急に顔を上げたと思ったら、ミクリオはベッドから滑り降りた。自分もザビーダの正面にきちんと正座すると、背筋をぴんと伸ばし、膝の上で拳を固める。

「ザビーダ」

 こいつの目線はこんなに高かっただろうか。

 身長は出会った頃から変わっていないはずなのに、そう錯覚した。背後の窓から差し込んだ柔らかい光が、ミクリオの輪郭をきらきら照らす。

 吸血鬼になりたての頃は体調を崩す原因になっていた日光も、もうミクリオの枷にはならない。

「何度でも追いつくから。追いつけなければ追いつけるまで頑張るから。だから……もっと僕を信用してほしい」

 

 俺は幸せだ。

 

 唐突に、ザビーダはそう思った。平気そうに振舞ってた? 平気なはずがない。大事なものを奪われて冷静でいられる奴がどの世界にいる。

 

 本当はこいつの体を、心を、弄ばれたことが許せなかった。自分を抑えるのに必死だった。やっぱり一緒にいたのは間違いだったんじゃないかと一瞬考えた。自分が愛してしまったりしなければ、ミクリオはこんな風に傷つけられたりしなかった。激しく歪んだ悪意に晒されずに済んだ。

 ミクリオはそんな自分の後悔を簡単に粉砕し、なおもともに生きたいと望んでくれる。

 

 観光の目玉といえばガタのきた噴水と町長の石像くらいしかないさびれた田舎街に住んで、朝から晩まで何かとやかましい野次馬根性丸出しの客に囲まれて、吸血鬼に本気で惚れるような物好きな奴がそばにいて、たまに同じ星を見上げる。

 

 十分だ。

 ……十分すぎる。

 

 ミクリオが遠慮がちに唇を重ねてきた。ミクリオからキスをしてくるというのは珍しいので目を見張ると、驚いているうちに腕がザビーダの首の後ろに回る。

「……ん……」

 小さな吐息とともに唇が離れた。離れきる前に、その唇を追いかけてもう一度深く口づける。

 たった数日のことなのに、もうずいぶん長いこと抱き合ってないような気がする。ミクリオも同じなのか、舌の先が性急に縺れ合った。

 だが、ちゅっと音を立ててそれが解けた瞬間はっと我に返り、ミクリオの腕を外した。

 

 いまセックスをしたら、男にされた仕打ちを思い出させてしまうんじゃないか。

 ただでさえあの野郎はわざわざ自分をなぞるようにミクリオを抱いたのだ。トラウマをほじくり返すような真似はしたくない。

 ミクリオを体から離そうとしたが、その前にいきなり首筋に噛みつかれた。

「……っ!」

 ひゅっと背中を快感が駆け上がる。体中の血管が膨れ上がった後にきゅっと収縮するような、癖になる感覚。

 

 吸血鬼に噛まれた者はこの世のものとは思えない快楽を得る。獲物を陶酔させ、逃げられないようにするためだ。

 だが、このひりつくような気持ち良さはそのせいだけじゃない。

「僕は抱いてほしいって思ってる。……それじゃダメなのか?」

 上目遣いで尋ねてくるミクリオの瞳も、喋る度にちらちら覗く舌も、水の膜でも張ったように濡れている。

 

 体の奥が疼いた。この感じ。理屈じゃ抑え込めないところに火がつくこの感じ。

「……お前さんはいつからこんな風に人を誘うようになっちまったんだ?」

「べ、別に誘ってるつもりはないけど。……そう感じるんだとしたら、君がそうしたんだ。僕は少し、我儘になったのかもしれない」

 無自覚でこれか。とんでもねえ口説き文句だ。

「お前、吸血鬼の才能あるな」

「褒めてるのか?」

「褒めてるさ。……そうだな。お前は我儘になった」

「嫌?」

「愛してる」

 ミクリオを抱えてぼふんとベッドに押し倒すと、たっぷりキスをしながら少しずつ服を脱がせる。ミクリオの望みならとことん付き合ってやると誓った。これまでも、これからも。

「ちゃんと忘れさせてやるよ」

 男にこれでもかとつけられていたキスマークはすっかり消えている。上から下までまっさらな肌に口をつけると、くすぐったいのかミクリオがシーツの波間でもぞもぞと身じろぎした。

「ん」

「どこをどうして欲しい」

 囁きながら下腹部を強く吸うと、ミクリオが鼻にかかった声を漏らす。

「……にして」

「ん?」

「君の好きにして」

 内心苦笑して、ぷくっと膨らんだ乳首を摘んだ。

 火をつけるのが本当に上手い。こいつに流し目で「好きにして」なんて言われて狼にならない男がいるか。吸血鬼なのに狼っていうのも変な話だが。

「あ、う、あぁっ」

「お前は本当にここが弱いな」

 ミクリオは馬鹿にされたと思ったのか、潤んだ目でキッと睨んできた。

「君のせいだぞ……!」

「そうだな。俺のせいだ」

 胸を優しく弄りながらくくっと笑うと、後ろの方にも手を伸ばす。焦らすように孔の周りに指を這わせると、ミクリオがわずかに腰を揺らした。期待しているのだ。期待に応えられなくて何が男か。

「あ……んっ」

 胸と、指を突っ込んだ後ろを同時に責めると面白いように体が跳ねる。浅いところに指先を引っ掛けてから、既に知り尽くした敏感な場所を押してやるとミクリオが「ひっ」と声を上げて思いっきりしがみついてきた。

 何度やってもミクリオの反応は初々しい。その癖じゅぶじゅぶと卑猥な水音を立てながら指に喰らいついてくるんだから始末に負えない。

 

 自分しか知らない、幼馴染のスレイさえも知らないだろうこいつのあられもない姿を、あいつは見たのか。

 

 ミクリオの肩が怯えたように大きく震え、鮮やかな紫色がこっちを見上げてきた。物騒な想いがよぎったのはほんの一瞬だったが、それが伝わってしまったのかもしれない。

「……忘れさせてくれるんだろ」

 悪い、もちろんだ、と答えるかわりに唇を軽く噛んだ。本当は首筋に歯を立てたい衝動に駆られたが、噛むとミクリオがすぐに達してしまう。

 あっさりイかせるのはもったいない。今日はじっくりと、ミクリオの気が済むまで可愛がってやろう。他の男の慰み者にされたことを二度と思い出すことのないように。

 

 指を引っこ抜くと、ほどよく溶けたそこにぐっと腰を押しつける。熱い。

「うあっ、ひ、あ……ぁん!」

 突っ込んだところから焼けていく。熱くて熱くて熱くて、瞼の裏がちかちかする。

 ぐりぐりと突き上げると、ミクリオが身を捩って泣き声に似た嬌声を上げた。髪を払って耳を舌でなぞる度にぎゅうぎゅう孔の中が収縮する。もっと深く穿ってやろうとミクリオの脚を肩に担ごうとすると、ミクリオの方からきゅっと脚を絡めてきた。

「っ、君の目がすきだよ、」

 荒い吐息まじりの言葉に、脳味噌ごと揺さぶられる。

「こうしてると、だんだん、余裕がなくなってっ、目のいろが、濃くなる。っ声も、かわる。低くなって、すごく、っ、興奮する」

 ぺったんこの胸に凹凸の少ないシルエット。うっかりすると抱き潰しそうな華奢な体。

 まかり間違ってもグラマーな美女には見えないが、感じてとろとろに蕩けた表情に、縋りついてくるいじらしさに、快感を堪えようと必死にシーツを握り締める仕草に、どうしようもなく昂ぶる。

「あ……あっ!」

 ミクリオが激しくのけぞった。肩に爪が立てられる。弱点を突きまくっていたのを緩め、掠めるだけと思いっきり突き上げる抽送を交互に繰り返す。

「あ、あ、どうして、っ」

 「なんですぐにイかせてくれないのか」と言いたいんだろう。決まってる。気持ち良い時間は長い方がいいだろう。訳が分からなくなるくらい思う存分快楽を貪ればいい。

 とはいえこっちも気を抜くと根こそぎ搾り取られそうだ。

「ふあっ、あっ、あっ、あっ……あああ————ッ……!」

 ミクリオの身体がびくびくっと震えた。性器を飲み込んでいた肉がうねるようにそれを締め上げる。凄まじい快感を唇を噛んでやり過ごし、ゆっくりと性器を引き抜いた。

 いつもならここでミクリオがはあっと息を吐いてシーツに身を沈め、静かに余韻に身を委ねているのが常だ。だが、今日は様子が違った。

「あっ、ぼくっ、ぼくっ、やだっ、こんな、とまらなっ、」

 絶頂に達したはずのミクリオが、涙を零しながらガクガク痙攣している。

 そういやドライでイかせるのは初めてだったな。

「落ち着け。射精なしでイッたんだ。気持ち良いだろ? ちっとも悪いことじゃない」

 汗ばんだ額にはりついた前髪をかき分けて、宥めるためにキスを落とした。だがそれもミクリオにとってはとてつもない刺激のようで、むずがる赤ん坊のようにしきりに首を振る。

 思考ごと持ってかれるような快感が怖いんだろう。「怖いことなんか何もないさ」と繰り返して髪を撫でた。

「は……あ……ぁ……っ」

 ガタガタと体を震わせていたミクリオが、やがて深く息を吐いた。

「……きもち、よすぎて、どうにかなりそう」

「いいことじゃねえか」

 まだ夢見心地のミクリオの頰に触れてから、ベッドから起き上がろうとした。ミクリオの喉が擦れている。水でも飲ませてやろうと思ったのだ。

「待って」

 だが、起き上がる寸前、ミクリオに髪を引っ張られてまたベッドにひっくり返る羽目になった。

 ミクリオが真上から顔を覗き込んでくる。

「君がまだいってないだろ」

「……十分気持ち良かったからいいんだよ」

「嘘つけ。僕の身体のことは心配しなくていい。……それとも」

 ミクリオが不意に、悪戯っぽく微笑んだ。

 ザビーダの股間に手を伸ばすと、男の性器に触れさせるのが気後れするほどの繊細な指で、若干萎んでいるそれを掴む。

 

 ミクリオは自分の目を好きだと言ったが、俺もこいつの目が好きだな、とぼんやり思った。冷静で芯の強そうな青と、情熱的で真っ直ぐな赤の入り混じった色が、ミクリオをそのまま表しているようで。

 

「それとも、僕が君を満足させられないとでも?」

 

 

 

 

 

 

「ずいぶんご機嫌じゃない、ザビーダ」

 

 朝っぱらからぐさぐさぐさぐさ、エドナの弾丸のような嫌味が止まらない。

「よく弾切れにならねえな」

「てっきりしょぼくれた顔してるのかと思ったら、肌ツヤッツヤね。見習いたいくらいだわ。このワタシに対するアフターケアもなしに都合の悪いことは綺麗さっぱり水に流すのが、吸血鬼の処世術なのかしら? さすが長く生きてる種族は違うわね。老獪っていうか狡猾っていうか礼儀知らずっていうか空気読めないっていうか」

 

 アフターケアも何も、ミクリオが目覚めた後、エドナは宿屋に引っ込んだまま出てこなかったのでどうしようもない。だがそれが、三日間眠り続けたミクリオを何かと理由をつけて覗きに来ていたエドナの不器用な心遣いということは百も承知だったので容赦ない舌鋒を大人しく受け止めた。

 

 が、やっぱりついつい口は挟みたくなる。

 

「へえ、心配して様子を見に来てくれたってわけだ。愛だねえ」

「……なんか腹立つわね。ミボ、お詫びにノルミンダンスをなさい」

「何で僕が! というかノルミンダンスってなんだ!」

 ミクリオが言い返しついでに、山と積まれたパルミエをカウンターの上にドンと置いた。

 パルミエだけじゃない。エドナの前には紅茶だのザクロジュースだのアイスキャンディーだのケーキスタンドに盛られたタルト10種類だのが所狭しと並べられている。まるで満漢全席だ。

 エドナが「このワタシがわざわざ手伝ってあげたんだから体で返しなさい」と言うのでこうなった。

「大体、いくら何でもこれは食べ過ぎなんじゃないか? いい加減太」

 余計な口をきいたミクリオの横っ腹を傘でどついて黙らせてから、エドナはカウンターの方へ向き直った。

「いや〜それにしても、エドナちゃんが俺様を信用してくれてたなんてなぁ。『あなたの言うことは、一から十まで信用してない』なんて言ってたのに」

「誰が信用したなんて言ったのよ。本当におめでたい男ね。生きるのが楽しそうで何よりだわ」

「そりゃあ人生楽しいにこしたことねえだろ」

「……皮肉を皮肉として受け取りなさいよ」

 エドナはジト目で溜め息をつくと、紅茶のお代わりを淹れようとしたザビーダを手で制した。

「そろそろ帰るわ。残ってるおやつは包みなさい」

「帰るのか? もう少しいればいいのに」

 殴られた箇所をさすりながらミクリオが尋ねると、エドナは拗ねたように呟いた。何となく照れているように見えるが、気のせいだろうか。

「……もうすぐお土産持って帰ってくるって、ボーヤが寝てる間に知らせがあったのよ。家で待っててあげなきゃいけないの。『おかえり』って言わないと三日は拗ねるのよ」

「珍しいじゃねえか。アイゼンによろしくな」

「いいわよ。お兄ちゃんには立派なショタコンになってたって伝えておくわ」

「ショタコ……」

「アイゼンって? ザビーダの友人なのか?」

 ミクリオが袋に手際よくテーブルの上のお菓子を詰め込みながら、首を傾げる。

「まあな。放浪癖と骨董収集癖のあるデカくて目つきの悪〜い男。移動魔法使える癖に、年がら年中わざわざ船で旅してるのさ。全く、海賊王にでもなるつもりかねぇあいつは」

「大柄で目つきが良くないのは君も同じだろ」

「いや、あいつの方が倍悪いぜ」

「失礼ね、あなたの方がその倍悪いわ」

「じゃ、あいつはさらにその倍」

「いつまで続けるつもりなんだ……。はい、できたよ。気をつけて持って帰ってくれ」

 

 両手で抱えなければいけないほど膨らんだ包みを渡すと、エドナが中を覗いて「あら」と洩らした。

 

「ひとつ多いわね」

「君の兄さんの分。せっかくだから、とっておきの焼き菓子を入れておいたよ」

「ボーヤにしては気が利くじゃない」

「ちょっと前まで散々焦がしまくってたのになぁ」

「う、うるさい」

 

 エドナは椅子から上品な仕草で滑り降りた。混みあった店内から「追加の注文頼むわ〜!」と呼ぶ声がする。

 三日も休業していたので、開店を今か今かと待ち構えていた常連達がひっきりなしにやって来るのだ。きっと今日も、目が回るほど忙しくなる。

 ミクリオは客に愛想よく返事をしてから、エドナに「また遊びに来てくれ」と声をかけた。

 

「スレイも……僕の幼馴染のことも紹介させてほしい。滅多に帰って来ないけど、会ったらきっと気が合うと思う」

 入り口に向かいかけたエドナが振り返った。

「人間?」

「人間だけど、いい奴だ。……ちょっと危なっかしいけどね」

「ボーヤの幼馴染なら、きっとバカみたいにお人よしなおバカさんね。全然帰って来ないなんて、どこかの誰かさんみたい。……考えといてあげるわ」

 

 エドナの背中を眺めながら、ザビーダは紅茶の缶を指の先で弾いた。

 きっとエドナは日を置かずにここを訪れるだろう。長く商売をしてると、そういうことが分かるようになる。一回こっきりなのか、また一人で骨休めに来るのか、あるいは誰かと連れ立ってやってくる気でいるのか。

 エドナからは、ふたり分の気配がした。きっと今度はふたりでやって来る。

 いつ戸を押して入ってきてもいいように、エドナ達の好きな紅茶の葉を切らさないようにしないと。

 

 ……ここはそういう店だ。大切な誰かと、楽しい時間を分かち合うための店。

 なんでもない、あえて名前をつけることもない、けれど後から振り返ると、確かにかけがえがなかったと思えるひとときを過ごすための店。

 

 ミクリオと目が合った。

 エドナが入り口のドアを開けると、外から風に煽られた花びらがひとひら舞い込んだ。

 

「またのご来店を、心よりお待ちしております」

 

 

 

 

end

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