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※モブミクが入りますので、苦手な方はご注意ください※

 確かに街を案内するとは言ったが、だからってこれはいかがなものか。

 

「何でわざわざ猫になるんだ」

『自分の足で歩くと疲れるでしょ。ほら、てきぱき動きなさい』

「ちょ……分かったから尻尾で頬を叩くのをやめてくれ! くすぐったい!」

 

 ミクリオは黒猫に姿を変えたエドナを胸に抱えて大通りをてくてく歩いていた。人を自動式乗り物扱いしておきながら悠々と丸くなっているエドナは、軒を連ねる店を吟味しつつあれが見たいこれが見たいと顎で指示を出してくる。

 

 女性用の装飾品が並ぶ店を覗いたり(おかみさんに「似合うわよ〜」と散々オモチャにされてげっそりした)、この街唯一の名所である広場の噴水まで連れて行ったり(近づいた途端水が勢い良く噴き出してエドナにかかり、「これだから水は嫌いなのよ」と呻いていた)、雑貨屋の主の怒涛のセールストークに10分以上付き合わされた挙句、イチ押し商品らしい謎のぬいぐるみをエドナのたっての希望で購入したり(しかも自腹)している頃には、あっという間に街を巡り終わってしまった。元々そう広い街でもないのだ。

 

 掌サイズのやたら丸っこい人形にエドナはご満悦だが、どう考えても年頃の男が持つものじゃない気がする。猫とぬいぐるみを抱えて街の中を練り歩いているなんて、周りからどう見えてるんだろう。後で絶対大人達にからかわれる。

 ミクリオは、可愛いと言えないこともないぬいぐるみを見下ろした。

「これ……持ち歩くのが恥ずかしいんだけど。だいたいこれは何のぬいぐるみなんだ? クマ?」

『ノルミンよ』

「ノルミン?」

『「ノルミン」っていうのよ。いま都で大人気の人形よ。知らないの? 遅れてるわね』

 

 だからノルミンって一体どういう生き物なんだと叫びたくなったが、エドナは「ノルミンはノルミンよ。それ以上でもそれ以下でもないわ」としか教えてくれない。今度スレイにさりげなく手紙で聞いてみよう。

 

「どうだった? 観光は」

『びっくりするほど田舎ね』

「他に感想はないのか……」

『田舎は嫌いじゃないわ』

 エドナはそれだけ言うと、抱かれているのが余程気持ちいいのか、腕の中で丸くなったままくああ、と小さく欠伸をして目を閉じてしまった。始終ぐうたらしておきながら何様かと思うが、はるばる旅をしてきたというし、今になって疲れが出たのかもしれない。

 ずっとエドナとぬいぐるみを抱え続けていい加減腕が痺れてきたせいもあり、ミクリオは教会の裏にある小さなベンチに腰掛けた。

 教会の裏に作られたこじんまりとしたスペースは、大通りと違って滅多に人が来ない。しかし陰気臭いかと言えばそうでもなく、神父が趣味で育てている薔薇がこの空間をぐるりと取り囲む形で咲き誇っており、闇にうずくまる炎のような密かな輝きを放っている。

 ベンチの背後には小川が流れ、せせらぎが耳に心地良い。じっとしていると、エドナにつられて自分まで眠くなりそうだ。

 ここは小さい頃から、ミクリオのお気に入りの場所だった。どうしても耐えられなくなったら、誰にも見られないよういつもここで泣いた。

 

 ザビーダとエドナが何やら自分に隠し事をしているらしいことに、ミクリオは薄々勘付いていた。ザビーダが何も言わないのは今に始まったことじゃない。だが、珍しく訪れた昔馴染みと結託しているということが、ミクリオを意味もなく不安にさせた。

 

 一緒にいてだんだんと分かってきたが、ザビーダの人を食った物言いで真意をくるむような真似には理由がある。本人が言いたくないか、言いたくないことはないが「聞かれるまで言う必要はない」と判断しているか、誰かのために黙っているか。元々の性格もあるだろうが、優しいのだ、おそらく。

 エドナだってザビーダの友人なんだし、少なくとも悪人じゃないだろう。人は悪いが。

 それに、彼女も悪意があって隠し事をするタイプには思えなかった。

 分かってはいる。分かってはいるけど。

 

 こういう時、言い知れない寂しさが肩を叩く。僕じゃやっぱり、頼りにならないんだろうか? 何かを打ち明けるにはふさわしくないのか? 

 もしもスレイに同じことをされたとしたら、大事なことをひた隠しにされていたらということだが、自分は烈火の如く怒るだろう。そしてひとしきり怒った後、さっさと諦めてスレイの我儘に付き合うだろう。それはスレイがこの世でただ一人の親友で、家族だからだ。遠慮だの気遣いだの、赤の他人にするような気の回し方をして欲しくないからだ。

 もっと不作法で、生々しく、自分の一部だと思わなければ絶対にできないようなことをして欲しい。できれば一生。

 

 ザビーダに同じことを求めているわけじゃない。

 ザビーダとは目線の高さも踏んできた場数も違いすぎて、背伸びをしたところでたかが知れている。それでも同じ景色を見たかった。同じ目線には到底なれないかもしれないが、ほんの少し覗くだけでもよかった。何が見えているのかを知りたかった。

 もう少し人生経験を積んでいれば、あるいはエドナのようにもっと早く彼に出会って苦楽をともにしていれば、気遣われるばかりじゃなくて済んだんだろうか。考えても仕方ないのは重々承知しているが、理屈じゃない。これは感情の問題だ。

 

 柔らかい風が、宥めるように頬を撫でた。

 ザビーダだけじゃない。

 久しぶりに会ったスレイは、努力に裏付けられた自信と覚悟に満ち満ちていて、まるで別人のようだった。ミクリオは自分自身の弱さに歯噛みしたことはあっても、己の選択を後悔したことは一度もない。それでも、スレイの広い背中は誇らしくて、まだ遠かった。一日一日を懸命に生きている人間の背中だと思った。

 ザビーダの果ての見えない孤独にも、スレイの揺るぎない歩みにも、追いつける気がまるでしない。

 

「こんにちは。昨日はどうもありがとう」

 急に声を掛けられて、ミクリオはやっと思考の海から引き戻された。目の前に、背の高い男が立っている。昨夜吸血鬼から助けた男だ。

「……ああ、あなたか。礼なんかいらないよ、僕が好きでやっていることだから。怪我はなかったかい?」

「お陰様で。……隣、いいかな?」

「構わないよ」

 ミクリオは隣に置いていたノルミン人形を自分の膝の上に移動させ、男のために席を空けた。エドナはまだ腕の中でうとうとしている。

 すとんと腰を下ろした男はきょろきょろ辺りを見回すと、感慨深げに呟いた。

「いいところだね。静かで、考え事をするにはぴったりだ」

「そうだろう? 僕の好きな場所なんだ」

 ミクリオは眩しそうに目を細め、空を見上げた。自分のとっておきの場所を他人に褒められるのは素直に嬉しい。男はそんなミクリオの横顔をじっと眺めている。

「この街には旅行か何かで来たのかい?」

 ミクリオが尋ねると、男は首を振った。

「いや、昔の知り合いに会いにね。借りたものを返しに来たんだ。住まいを転々とする落ち着きのない男でね、探すのに骨が折れたよ」

 ミクリオは曖昧に頷いた。わざわざ借り物を返すためだけに方々を探し回るなんて、ずいぶん律儀な人だな。

 男が朗らかに笑った。

「それにしても、本当に見事な手際だった。吸血鬼が吸血鬼を退治するところなんて初めて見たよ」

「……見てたのか?」

 ミクリオは眉を顰めた。早く逃げろと言ったのに、好奇心が勝ったんだろうか。

「だいたい、吸血鬼がこんな白昼堂々歩いてるなんて驚いたよ。闇に紛れて人を襲う生き物だと思っていたが。それに街の人間は誰も何も言わないんだね」

 この街を初めて訪れる人間から、そう言われることは大して珍しくない。ザビーダやミクリオが吸血鬼だと知ってあからさまに怯える旅人もいる。

 それは仕方のないことだと二人とも割り切っている。全員が全員、受け入れてくれる訳じゃない。だからこそ、これまで通り振る舞ってくれる住民達の厚意が身に染みるのだ。

「日の光に慣れるよう訓練したからね。それに、みんな知ってるから。いい人達ばかりなんだ。……それじゃ、僕はそろそろ帰らないと」

 ミクリオは何となく居心地が悪くなった。男がさっきからミクリオの顔をぴたりと見据えて、一度たりとも視線を外さないからだ。

 墨でべったり塗りつぶされたような瞳からは何の感情も読み取れない。顔は笑っているが、目の奥がちっとも笑っていない。

 何か自分の顔についているんだろうか。それとも珍獣でも見ているような心持ちなんだろうか。どちらにせよ気持ちのいい話ではない。

 ミクリオは逃げるようにそっと立ち上がった。

 その衝撃で、エドナが目を覚ます。

「まあ、そう急ぐことはないだろう。君のことを聞かせてくれないか。ミクリオ君」

 ぬるりとミクリオの手首を掴んだ男の手は、驚くほど冷たかった。

 

何で僕の名前を知ってる。

 

 ミクリオがそう言う前に、男がミクリオの目を覗き込んだ。ガラス玉のような瞳が、不意に妖しく光る。

 エドナが鋭く唸った。

「実に惚れ惚れするほど優秀だ。でも私の獲物を奪ったのはいただけないな」

「え?」

「人間相手だと無防備だね、君は」

 男の台詞は語尾の辺りでブレた。酷い耳鳴りがする。視界が、男の瞳と同じ黒に染まる。

 体中の力が抜けて膝から崩れ落ち、腕の中からエドナとぬいぐるみが滑り落ちた。

 エドナが地面に着地した瞬間、轟音を立てて石畳に亀裂が走り、土煙を上げながら男の両脚を呑み込んだ。だが、地割れに呑み込まれているというのに、男はほとんど体勢を崩すことも、悲鳴を上げることもなかった。ぞっとするほど落ち着き払ったまま、ゆっくりとエドナの方に首を巡らせた。

 その瞳の冷ややかなことといったら。

「魔女か? 魔術師か? こんなところにいるとは珍しいな。……目障りだ」

 男の目とエドナの目がかち合うその瞬間、ミクリオがなけなしの力を振り絞り、何かを素早く投げた。ノルミン人形。飛んできた人形と正面衝突したエドナは、勢い余って背後の小川に落下した。

 川は浅く、さほど流れも速くない。それでも突然のことで面食らった。

 しばらく飛沫を上げながらもがいていたエドナが、ずぶ濡れのぬいぐるみとともにようやく岸に這い上がった時、二人の姿はもう、なかった。

 

 

 

 

 

 蜘蛛の巣にまみれた石造りの天井。

 ミクリオがようやく目を覚ました時、目の前に広がっていたのはそれだった。

 何度か瞬きをした後、寝かされていたベッドから身を起こす。

 荒れ果てた部屋だ。古いシーツのかび臭いにおい、明かり取りの窓から入って来るぼんやりとした光、書棚から落っこちてあちらこちらに散乱した本。

 

 ここはどこだ。

 

 数秒考えて、思い当たった。街からしばらく歩いたところにある古城の一室だ。小さい頃、スレイと一緒にこっそり忍び込んで秘密基地にしていたから内装に見覚えがある。

 舞い上がる埃や景気よく壊れた調度品の類もそのままだ。だが、今は昔懐かしい想い出にどっぷり浸っている暇はない。

「ああ、気がついたかな。そろそろ目を覚ます頃だと思ったよ」

 蝶番の壊れたドアを押し開けて部屋に入って来た男は、何をそんなに浮かれているのかフンフン鼻歌を歌っている。一気に身を固くして睨みつけるミクリオにも全くお構いなしで、男は意気揚々と近づいてきた。いくら自分の凄みに迫力がないとしてもこれはない。

「何のつもりだ。言っておくけど、お金なんか持ってないぞ」

 そう油断なく言いながら、エドナは無事に戻れただろうか、と考えた。男から逃がすためとはいえ、咄嗟に物を投げつけるなんて酷いことをしてしまった。怪我なんかしてないといいけど。

 

 自分一人なら何とかなる。目と鼻の先で、何かを点検するようにミクリオの頭から腕、つま先までくまなく眺め回している男は拍子抜けするほど隙だらけだ。その気になればいつでも叩きのめして逃げられる。

 ここへ連れて来るのに何かしらの術を使ったんだろうが、今のところ体のどこにも異常はないし、武器も……取り上げられていない。

 大体吸血鬼と戦うのを見ていただろうに、拘束もしないとは舐められたものだ。力でねじ伏せられると思っているのか。

「お金」

 男がミクリオの言葉を復唱し、せせら笑った。

「これが金目当てに見えるかな? 私が金を奪うなら、もっと金持ちで手のかからない女子どもを狙うね。もしくは棺桶に片足を突っ込んでいるような老いぼれだ。まかり間違ってもあんなしょぼくれた喫茶店の従業員を選んだりはしない」

 男の言う通りだ。それに、ただの追い剥ぎならわざわざ人に見つかる危険を冒してまでこんなところに連れてくる必要はない。

 それより今、何と言った?

「『どこまで僕のことを知っているんだ』と考えただろう。君は思った事がそのまま顔に出るようだ。素直な子は好きだよ。……さて、どこまで知っているんだろうね? 君が化け物になったいきさつかな、それともあの男との馴れ初めかな。あるいは君達の部屋の天井の染みの数」

 ざっと鳥肌が立った。ミクリオの名前や事情は街の情報通に聞けばあらかた分かるだろうが、一体何の目的でそんな嗅ぎ回るような真似をするのか全く見当がつかない。

 頰に男の手が伸びてくる。限界まで後ずさり、その手をパンと弾いた。

「触るな」

「……素直で気の強い子は好きだよ。虐め甲斐がある」

 男が再び身を屈めたのを見計らって、思い切り腹に拳を叩き込んだ。

 ナイフはすぐ抜ける位置にあったが、人間相手にできる限り刃物を振り回したくはない。体をくの字に折り曲げて小さく呻きながら崩れ落ちた男の脇をすり抜ける。曲がりなりにも誘拐犯だ、一度戻って役人に知らせなくては。

 ドアの取っ手に手をかけた瞬間、全身から嫌な汗が噴き出した。

「……あ………?」

 指先まで痺れたように動かない。全身が石にでもなったみたいだ。あと一歩、ドアノブを捻るだけなのに、それがかなわない。金縛り? こんなところで?

「……戻ってきなさい」

 げほげほ咳き込みながら男が命じると、ミクリオは人形師に糸で手繰り寄せられる傀儡のように、あろうことか男の腕の中に戻っていった。男は目を見開いたままのミクリオを再びベッドに投げ込むと、腹の上に馬乗りになる。

「……思った以上に血の気が多いな。あらかじめ催眠をかけておいて正解だった」

 何だ? 何が起こった? どうして身体が言うことを聞いてくれないんだ?

 未だ混乱の渦中にあるミクリオの顔を覗き込み、男は満足げに頷いた。

 男の指が乱れた髪の中にするりと滑り込む。相変わらず身体は爪の先までピクリとも動かず、さっきのように男の手を振り払うこともできない。

「どうして拘束しなかったか分かっただろう。する必要がないからだよ」

「……僕に何か……恨みでもあるのか」

 かろうじて自由な口を必死に動かした。

 金銭目的でないとしたら、あとは怨恨。捕らえた暴漢から後々逆恨みされた経験だってないではないのだ。

「別にないよ。君はあの男と一緒にいる自分自身の不運と見る目のなさを嘆いたらいい」

「ザビーダのことか? ザビーダが何をしたって……」

「知らないのか? 信用されていないんだな」

 絶句したミクリオを尻目に、男は片手でミクリオの懐を探ると、すっとナイフを引っ張り出した。

「こんな物騒なものを持ち歩くなんて悪い子だ」

 男は鈍く光るナイフの刃をこれ見よがしに揺らしてみせると、ミクリオの細い首にあてがい、徐々に下にずらしていく。

「な……に……」

 

 衣の裂ける音が、けたたましく耳に響いた。ただの布切れと化したシャツをやけに丁寧に剥ぎ取られたかと思うと、剥き出しの胸を撫でられる。撫でるだけにしては、いやに手つきが。

「触るな!」

「ああ……白くてきめ細かい肌だ。吸血鬼は眷属を含めて美男美女の多い種族だが、君はまた格別だね。あの男が気に入るのも分かるよ」

 耳に息がかかり、全身が総毛立った。ミクリオが焦れば焦るほど、男はゆっくりと煽るように掌で肌を堪能し、最後の最後に胸の粒を柔らかくつまんだ。

「っ!」

「感度もいい。この顔と体で一体何人の男をたぶらかしたんだい?」

「……ふざけるなッ……!!」

 頬と頭にかっと血が上った。プライドを傷つけられた屈辱でどうにかなりそうだ。

 男である自分の体を求めてきた物好きはザビーダだけだったし、他の誰かにそれを許すつもりはない。後にも先にもだ。

 だが現状、会って間もない男に首筋に顔を埋められ、ねっとりと舌を這わされている。

 おぞましい生き物のように動くそれが徐々に下に下りてきて、微かに震える胸の先に絡みついた。さすがにここまでくれば何をされるのかなんとなく察しがつく。つきたくなかったが。

 舌先でころころと転がされ、ぞくぞく粟立つ感覚を振り切るように、精一杯声を荒げる。

「やめろ、気持ち悪い! 僕は男だぞ!!」

「……いいね。まだ駆け出しの頃に倒した女吸血鬼のことを思い出すよ。彼女も本当にいい悲鳴を聞かせてくれた。知ってるかい? 不死の化け物でもみっともなく命乞いをすることがあるんだ」

 ひゅっと喉が鳴った。……この男。

「はは、怖かったかな? 安心したまえ、君にはまだ傷ひとつ付けないよ。君は大事な大事な道具だからね。小さい頃お母さんに教わっただろう、モノを粗末に扱っちゃいけないと」

「…道具……?」

 さっきから男が喋る度に吐息が胸に当たって気色悪いやらくすぐったいやらだ。意図的にやっているのかもしれないが、だとすると自分は男の思う壺ということになる。気を抜くと乱れそうになる息を必死で噛み殺した。

「私の人生と名誉を叩き潰したあの男に最大限、屈辱と絶望を味わわせてやらなきゃ気が済まない」

 男の指がじりじりとミクリオの頬をたどり、柔らかい唇に触れ、そのまますっと下にずれて細い顎を掴んだ。

「君に分かるか? 私の苦しみが。私は狩人として人々から崇められていた。なのにどうだ、それを奪ったあの男はのうのうとおままごとだ! 私は暗い石牢の中で15年も過ごさなくてはならなかった! 15年! 奴の正体を見抜くことすらできないバカ共に詰られながらだ! この私を、まるでゴミでも見るような目で、あいつらは……っ」

 男の指がぶるぶる震えだした。顎に指先が食い込む。そのまま男の方に顔を強く引き寄せられた。

「いっ……!」

「あの化け物から奪ってやる。何もかもだ」

 地の底を這うような声がミクリオに絡みつく。そのために自分を捕らえたっていうのか。ザビーダに復讐するためだけに。

 この男とザビーダとの因縁を深く知る由もないが、男の言動は既にミクリオの理解の範疇を超えていた。

 至近距離で男と目が合う。男の黒々とした瞳はミクリオを映しているが、実際に見ているのはもっとずっと別のところだろう。この男に見られているとどうも落ち着かないのはそのせいだ。

 そう思うと、男に感じていた言い知れない恐怖がすっと引いた。かわりに噴き出したのは猛烈な怒りだ。

 自分をどうこうすれば彼を思うままにできると考えているなら、勘違いも甚だしい。

「自業自得だ」

 ミクリオが冷めきった声で吐き捨てた。

「君よりもザビーダの方がよっぽど人間らしいよ」

 途端にベッドに叩きつけられ、一瞬呼吸が止まる。

「……っ!!」

 息を吸おうとしたら、髪を思い切り掴まれた。男は逆上しやすいタチらしく、こめかみに青筋を立て、唇の端をひくつかせながらミクリオを覗き込む。

「調子に乗るなよ。裏切り者のメスガキが」

 殴られるかとつい目を閉じたが、男はギリギリと歯を軋ませたままその場から動こうとしない。傷ひとつ付けないという自分の言葉は守るらしい。

「……ミクリオ君。君はまだ若い。物事の分別というものがついていない。だからあんな化け物にころっと騙される。君は元人間なんだろう? 同じ人間のよしみで言ってあげてるんだよ。心からの善意だ」

 ようやく口調が元に戻ったと思ったら、男は髪を掴んでいた手を放し、おもむろにミクリオのズボンに手をかけた。ミクリオが何か言う前に信じられない手際の良さで引きずり下ろし、床の上に服を放り投げる。

「……久しぶりに血気盛んな吸血鬼をいたぶれると思ったのに、君にとられてしまったからね。代わりに君が私を楽しませてくれるんだろう?」

 目だけで舐め回すような視線を肌で感じて、唇を強く噛んだ。

 男の口ぶりからして、エドナと会った夜に聞いた悲鳴は彼ではなく、吸血鬼のものだったんだろう。男を襲おうとして返り討ちに遭ったのかもしれない。錯乱していたのは催眠のせいか。

 

 男の視線がミクリオの顔、胸、腹、太もも……とゆっくり移動していき、勃ち上がってもいないそれをしげしげと眺めた後、またぱっと顔に戻った。

 そして何を考えているのか、自らのズボンの前をくつろげる。

「さ、舐めてごらん。歯を立てないように気をつけて。噛まれでもしたら困るからね」

 目を見開いたミクリオの前に、勃ち上がりかけた男性器が突きつけられる。

 嫌だ。嫌だ。嫌だ。絶対に言いなりになんかなるもんか。

 頭の中で罵詈雑言はひっきりなしに湧いて出るが、己の意思に反して体が勝手に動く。ベッドの上で四つん這いになり、男のそれをゆっくり口に含む自分が信じられなかった。ちくちくした陰毛が頬に当たって不愉快極まりない。

「んうっ! ふ、ぅ、……っ!」

「ああ……なかなか上手いね。君、こっちを商売にしたら?」

 後頭部を押さえられ、喉の奥の奥まで男のモノを突っ込まれる。

 思い切り噛みちぎってやりたかったが、噛みちぎるどころかみるみるうちに怒張していく男のそれにねっとりと舌を這わせ、むしゃぶりつく。まるで自分のものじゃないみたいだ。自分のものじゃない身体が、男の欲望を咥え込んで懸命に奉仕している。

 咽せるような味と臭いと嫌悪感のせいで、勝手に溢れ出した涙が目尻に溜まった。道具だと言うならいっそ乱暴に扱えばいいものを、髪や耳を撫でてくるのがまた腹立たしい。

 

 こんなの……こんなの、冗談じゃない。

 

 男のモノが咥内で一際大きくなったかと思うと、口いっぱいに苦味が広がった。

「……飲みなさい」

 荒くなった息を整えながら命じる男に、口の中のものを吐き捨てて悪態のひとつでもついてやりたいがそれすらも叶わない。ごくんと喉を鳴らして吐き出された精を飲み込んだ。その一挙一動を眺めていた男の目が、獣のようにぎらついている。

「はぁ……っ、は……っ」

「まさか、しゃぶっただけで感じたんじゃないだろうね? 見かけによらず淫乱なんだな」

「ちが……ッ!!」

「強情な子だ」

 男は鼻で笑うと、ベッドの上に仰向けに寝そべった。その腹の上にまたがる自分にも、もう驚かない。今の自分の身体は男の操り人形だ。速やかにこの悪夢のような時間が終わることを祈るしかない。

 それでもなすがままにはなりたくなくて、唯一自由に動く目で男をきつく見下ろした。

「さあ、教えてくれないか? あの男にどんな風に愛されているのか。私もその通りに愛してあげよう」

 教える? なにを?

 男の言葉の意味をとらえあぐねているうちに、ミクリオの腕が男の首に回った。まさか。

 唇を重ねる。何度か角度を変えてキスをして、そろそろと舌先を差し出した。舌を舌で絡め取られる。あっという間に口の中で互いの唾液が混じり合い、ぐちゅぐちゅと水音が響いた。

「んっ、ぅ……!」

 睫毛と睫毛が触れ合うほどの距離に男の顔がある。視線が合うと、男は爬虫類のようにどろりと目を細めた。ミクリオの吐息が漏れる度、男の股間がまた少しずつ膨らんでいくのが、尻に当たる感触で分かる。

 男の舌がミクリオの口内を思うさま蹂躙したあと、ずるっと引き抜かれた。

「……なるほど、キスからなんだね? なかなか情熱的だ」

 唇の端から伝う唾液を拭うこともできないまま、ミクリオの長い指が男の手首を取り、胸に導く。

 すっと血の気が引いた。

 間違いない。この間ザビーダに抱かれた時の状況を身体が勝手に再現しているのだ。ふざけてる。いくらなんでも悪趣味すぎる。

 

 そう恥ずかしがるなよ。ほら、全部見せてみろって。みっともないことなんて何もねえんだから。

 お前はどうしてそう……誘うのが上手いのかね。

 

 いつもキスを繰り返すうち、徐々にザビーダの瞳に火が灯るのがたまらなかった。普段女性と見れば気前よく口説きまくるあの人が、本気で自分だけを求めている。

 

 ザビーダの表情からどんどん余裕が削ぎ落とされていくのが好きでいつまでも見つめていると、「余裕じゃねえか」と額に唇を落とされ、前後も分からなくなるほど滅茶苦茶に責められる。切羽詰まって恥ずかしい台詞を何度も口走り、縺れ合いながら互いの声も息も指も溶けて混じるのが本当に気持ち良くて気持ち良くて、無我夢中で広い背中にしがみついた。

 

 男の手つきも目つきも、ザビーダとは似ても似つかない。その癖全く同じように愛撫を重ねてくる。こんなの、彼に対する侮辱以外の何物でもない。

 こんなことでザビーダとの記憶を上書きされるなんて嫌だ。

 絶対に嫌だ。

 

 今の自分にできるのは、声を上げないよう歯を食いしばって必死に耐えることだけ。間違ってもこんな男に感じさせられるなんて、そんなことは。

 尻と胸をしつこく弄っていた男が突然、指に力を込めた。

「気に入らない目だ。もう少し気持ち良さそうな顔をしたらどうだい?」

 その途端、感じたことのない強烈な刺激が荒れ狂う波のように腰を突き上げた。

 逃れられない熱に息が詰まる。

「く…ぁ……うああぁああああっ!!??」

 「気持ち良い」なんて生易しいものじゃない。激しすぎる快楽に下半身がガクガクと揺れる。自分の意思で体が動かせないため快感を逃すこともできず、ほとんど悲鳴のような嬌声を上げて悶えるしかない。

「気持ち良すぎて気が狂いそうだろう? 催眠術で感度を上げてるからね。ちょっと触っただけで、こうなる」

 男の指が触れるか触れないか、ギリギリのラインで胸を掠めた。

「ひっ!」

「……ああ、いやらしい顔になってきたよ」

「は…ぁ……いやだ…やめて…」

 あまりの疼きに身体がばらばらになりそうだ。上がった息を隠すこともできず、喘ぐように懇願するミクリオに、男が嬉しくて仕方ないと言わんばかりに唇を歪めた。

「それで、次は?」

「ぅう……っ!」

 拒絶したい。これ以上この男を喜ばせたくない。

 熱に浮かされた頭でもそれははっきりしている。だが無情にも震える手は男の硬いモノに触れ、ゆっくり扱き上げると、そっと自身の尻にあてがった。

 

 こんな状態で挿れられたら、どうなるか分かったものじゃない。本当に壊れる。壊れたらどうなるんだろう。理性も何もかも吹き飛ばしてこの男にあられもない痴態を晒し、縋りつくんだろうか。小刻みに痙攣するミクリオを眺める男は興奮しているのか、唇をしきりに舐めている。

 

「あっ……!」

 滴をしたたらせた欲望が埋め込まれた瞬間、男が下から勢い良く突き上げた。

 ちょうど弱い部分に何度も何度も叩きつけられ、目の前に火花が散る。仰け反るミクリオの腕を強く引いてさらに深く繋がろうとする男の指が肌に食い込み、それがまた快感にすりかわる。

「あっ、あっ、あっ」

「ああ、最高だよ……! こんなに締め付けて、本当に悪い子だ……! どうだ、あの男とやるよりよっぽどイイだろう? 言ってごらん、気持ち良いですって」

「………っぁ……や……だ………」

「言うんだ、ほら。それとももう少し感度を上げた方がいいかな?」

「…………………っ!!!!」

悪魔の囁きとともに、体の奥から地獄のようなうねりが襲ってくる。息ができない。声が掠れる。もう頭がぐちゃぐちゃで思考も忍耐も役に立たない。

 それでも、ぼろぼろ零れる涙に濡れてなお、ミクリオの瞳から光は消えなかった。

 

「こんなこと……したって、ザビーダは君の思い通りになったりしない」

 

 

 跡形もなく飛び散りそうになる意識の片隅で、ザビーダの顔がちらついては消える。

 どうか。

 どうか来ないでくれ。頼むから。

 

 

 

 

「そうか」

 全身濡れ鼠のまま喫茶店に戻ったエドナが事の次第を説明し終わると、ザビーダはそう言ったきり、カウンターで洗ったばかりのカップを拭く作業に戻ってしまった。

 エドナは耳を疑った。そうか?

「ミク坊が面倒かけたな、エドナちゃん。そのかっこじゃ風邪引いちまう。二階の部屋貸してやるから着替えてきな。……俺の服じゃでかすぎるか。あいつのでよけりゃ、右から2番目の棚」

 ぽんとタオルを渡されたエドナは何か言おうとして、一呼吸置いた。ザビーダは言動こそ軽いが馬鹿じゃない。何が起きているかくらい分かるはず。

 

 エドナの見る限り、ザビーダの口調も表情も全くもっていつも通りだ。

 100年単位で会っていないので平常運転のザビーダを知り尽くしている訳でもないのだが、少なくとも取り乱した様子は微塵もない。懇意にしている相手が攫われたんだから、もっと慌てふためいたっておかしくないのに。

 慌てたところでどうにもならないと踏んでいるのかもしれないが、それにしたって冷静だ。……冷静すぎる。

 

 まあ、こいつが本気でうろたえてる姿なんて生まれてこの方見たことないけど。

 

「それにそんなことより、早く家に帰った方がいいんじゃねーの? 兄貴のおつかいは済んだんだろ。音沙汰がないと、またアイゼンがあっちこっち捜し出すぜ」

 そんなことより?

「……そんなことって何よ。あの子を捜さないの」

「捜さねえよ。何で捜さなきゃいけねえんだ?」

 エドナは一瞬、自分が不思議の国にでも迷い込んだかのような錯覚を覚えた。何で? 「何で」って聞きたいのはこっちよ。

 

 あの狩人が噂通りの人間なら、ミクリオを狙いうった理由は想像がつく。あの男はザビーダを苦しめるためなら何だってするだろう。そのために恐らく情報を片っ端から集め、わざわざこんな田舎くんだりまで来てミクリオに近づいたのだ。

 当のザビーダに接触しなかったのもわざとだろう。真綿で首を絞めるように徐々に徐々に追い詰め、身動きが取れなくなったところで縊り殺す。

 

 ほんの一瞬だったが、あの男の目を見た時正直ぞっとした。自分なんかまるで眼中になかった。憎悪や執念と呼ぶのもおこがましいようなどす黒いもので目が眩んでいた。

 あんなもの、人間に持てる感情じゃない。あれは、怪物だ。

 

 それとも何? あの男の掌の上で転がされるのは嫌ってわけ? それは一理ある。一理あるが、それですごすご引き下がるような相手だとは思えない。

 あの男にとってミクリオは唯一にして最大の餌であり駒だ。ザビーダが動かないと分かれば、どんな手に打って出られるか予測がつかない。一刻も早く捜し出さなくては取り返しがつかなくなる。

 エドナは魔女の間で噂されていた、あの男の悪逆非道な行いを思い浮かべて、顔を顰めた。

「……放っておくとあの子が酷い目に遭わされるかもしれないわ」

「そうかもな」

「本気で言ってるの?」

「そうかもな」

 ザビーダの目の奥は凪いでいて、相変わらず何を考えているのか全く読めない。そのことが、その落ち着きが、無性に腹立たしい。

 最後のカップを拭き終えて棚に戻したザビーダが、不意に笑った。

「俺と一緒にいるってのはそういうことさ」

 バフッ! と妙に乾いた音がしてから我に返った。

 手に持っていたタオルを思い切りザビーダの胸に投げつけたのだと気がついてからも、血がぐつぐつ煮えたぎるような感覚は収まらない。

「見損なったわ」

 自分でも驚くほど、声が怒りで震えていた。下を向いた傘の先からぽたぽたと雫が落ち、綺麗に磨かれた床の上に小さな水たまりを作る。

「あなたにとってはその程度のことなのね」

「八つ当たりかい? 人嫌いのエドナちゃんが、坊やにずいぶんご執心じゃねえの」

 ザビーダに言われるまでもなく、八つ当たりだということは十二分に自覚済みだ。

 そばにいたのに何もできなかった。自分がもう少し警戒してさえいれば、もう少し早く男に気付いてさえれば、ミクリオを連れ去られなくて済んだかもしれないのに。それがこのザマだ。

 それどころか、すんでのところで助けられた。ミクリオに助けられるのは二度目だ。

 

 あの夜だって、本当は瀕死の吸血鬼ごとき、魔法の一発でも撃てば追い払えた。

 それなのに、そのことを知らなかったとはいえ、あのひ弱そうなボーヤは身を挺して自分を庇ったのだ。

 たかだか猫一匹のために。

「……あなたに教えたワタシがバカだったわ。一人で捜す。二度とワタシに顔を見せないで」

 エドナが振り返りもせずに扉を開けて出て行くと、固唾を飲んで行方を見守っていた常連達が一斉に弛緩し、奥にいた町医者が膝に娘を抱えたまま、ガタガタとカウンターまで椅子を引っ張ってきた。

「床に傷つけんなよ」

「あの嬢ちゃんえっらい剣幕だったけど、大丈夫かよ。もしかしてコレか? とうとうあんなちっこい子にまで手を出したってか〜? やめてくれよウチの娘に目ぇつけるのは」

 町医者が小指を立てると、「おいおい、冗談だろ?」とザビーダは肩を竦めた。

「人のこと節操無しみたいに言うなよ。だいたい俺の好みはグラマラスないい女で子どもは射程外だぜ」

「ミクリオはグラマラスでもいい女でもないし子どもだろ」

「あいつはまあ、あいつだからねえ」

 

 町医者がなんとも言えない妙な顔をした瞬間、「ねえねえ、なんできょうミクリオいないのー? つまんない」と幼い娘が膝の上で足をばたつかせた。自他ともに認めるミクリオファンの彼女は、ミクリオがいないと途端にご機嫌斜めになる。

 ザビーダはわざわざカウンターから出てきて腰を屈め、少女に目線を合わせると、頭をぽんと撫でた。

「あいつはちょっと出かけてるだけさ。それより、悪いが今日はもう店仕舞いだ」

「……まだかき入れ時じゃねえかよ。仕事する気あんのかあんた」

「パーティーの招待状が来たのさ」

 後ろ手で、ズボンのポケットから小さな手紙を引っ張り出した。エドナが来る直前に裏口のドアに挟まれていた、神経質なほどきちんと封蝋で閉じられた手紙。

 「ミクリオを捜さない」というのは嘘じゃない。エドナに嘘は言っていない。本当のことを正確に告げなかっただけだ。先方が親切にも何から何までお膳立てした上で、首を長くしてお待ちなんだから、そもそも捜す必要がない。

 

 ……悪いな、エドナ。

 

「何だよパーティーって。そんなご大層なもん、こんな田舎のどこで開かれんだ」

「お城での舞踏会」

「はあ?」

「麗しの姫君が俺様を待ってんだよ。これ以上遅れると機嫌を損ねちまう。おら帰った帰った」

 次から次へと客達に声をかけ、一人残らず外に出してから店の扉に鍵をかける。のどかな田舎町のことだ、店主の気分で日も高いうちから店が閉まるのは珍しくない。「女房と喧嘩した」とか「ペットの猫が死んだ」とか「お気に入りの煙草が切れてやる気が出ない」とかいう理由で臨時休業する輩もいるのだ。

 

 それでも普段から比較的きっちり決まった時間に商売しているザビーダが客を追い出すのはそうあることではなかったので、常連一同首を捻りながらもそれぞれの自宅にぱらぱら戻っていく。

 恰好の休憩場所を失い、仕方ないので帰って仕事の続きでもするかと町医者が娘の手を引いた時、ぴたりと口を噤んでいた少女がおもむろに呟いた。

「……ザビーダ、へんだわ」

「変? 変かぁ? あいつはいっつも変といやぁ変だからな。んん? 変な奴が変になると普通になるのか?」

「へんよ」

 きっぱり言うと、少女はこわごわと自分のつむじの辺りに触れた。

 つい今しがたまで頭上に大きな掌がのっていたとでもいうように。

 

「てがね、こわいくらいあつかったの」

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