人の寝顔を見るのは悪くない。
まだザビーダは起きているだろうと踏んで「行ってきます」を言いにちょっと寝室を覗いたはずが、もうかれこれ15分近くベッドのそばに佇んでいる。仰向けで眠っているザビーダは寝返りも打たず、寝息すらほとんど立てていない。しんとした室内にはっきりと日付の変わる音が響く。
起きている時は何だかんだと騒がしい癖に、一旦眠りに落ちるとうって変わってぴくりとも動かないのはなぜだろう。まるで夜の静寂そのものだ。
ザビーダに言わせれば「仕事も遊びも睡眠も全力でやってる」そうで、話四分の一ではいはい聞き流していたが案外それは本当なのかもしれない。ザビーダは起きるためでなく、寝るためだけに寝る。
そういえばスレイもそうだった。
昼間はなにかと落ち着きがないのに、眠たくなると人をがっちり抱き枕にして貪るように寝る。揺すっても叩いても目を覚まさない。それこそ火事でも強盗でも起きないんじゃないかと心配したほどだ。
そんなスレイがいかにも頼りがいのある男にすくすく成長して帰って来たのには本当に驚いた。
スレイは今頃都で寝ずの番だろうか。風邪なんか引いてないといいけど。昔からずいぶん長引くから。
「……俺の前で別の男のこと考えるなんて、ちょっと酷いんじゃねーの?」
ザビーダがゆっくりと瞼を開いた。なんだ、狸寝入りか。
「見えてないだろ」
口にしてから「しまった」と思った。これじゃおっしゃる通りですと白状しているようなものだ。
「いーや。目なんかなくても見えるさ。たとえば」
「たとえば?」
「たとえばお前さんはさっき、俺の顔を見ながらこう考えたな。『いつもとは印象が全然違う』」
ザビーダが手を伸ばして、驚愕のあまり何も言えずにいるミクリオを引き寄せた。自然とザビーダの上に覆いかぶさる格好になる。
「ザビーダ、ちょっと……」
「で、今はこう思ってんだろ。『何で分かったんだ、吸血鬼は人の心まで読めるようになるのか?』。分かりやすいなぁミク坊。そんなんじゃ駆け引きなんて夢のまた夢だぜ」
いちいち図星をさされて腹立たしいことこの上ないが、勢いに任せて反論すれば「そこで怒るのがお子様なんだよ」とますます茶化されるのは目に見えている。どうにかして一矢報いてやる方法はないかとあれこれ考えていると、無骨な指が明確な意図を持って、なぞるように背中を撫でた。布越しにじんわり伝わる体温。
「『あーこのまま外に出るのをやめて、なし崩し的になだれ込んでもいいな〜。昨日のじゃ物足りなかっ』……」
ザビーダの手が腰まで下りてきたところで、思い切り手の甲をつねってやった。
「いって!」
「調子に乗るな!」
「何も本気でつねることねえだろいてーな」とぶちぶちうるさいザビーダを放っておいてベッドから飛び起きると、ミクリオは今度こそ「行ってくる」と寝室のドアを閉め、階段を駆け下りた。お陰で余計な時間を食ってしまった。
大通りはすっかり寝静まり、見上げれば星ひとつない。
こんな時間にわざわざ出歩いているような酔狂な人間は(人間じゃないが)、自分一人だ。だが、昔から良からぬ輩は闇夜に乗じて蠢くものだと相場は決まっている。ザビーダと過ごすようになっても、ミクリオはこうやって定期的に街を見回るのを忘れたことはなかった。
夜の見回りは常に一人だ。ザビーダがついてきたためしはない。
帰ってベッドに潜り込んだ時か、もしくは翌朝に「どうだった?」と聞いてくるだけだ。
「特に変わったことはなかった」とか「家に忍び込もうとしていた魔物を倒した」とか「歩いてる間に見た月が綺麗だったから、君と一緒に見たかったな」とか日によって答えはまちまちだが、その度にふんふん話を聴いてから「そりゃ良かった」「あんま無茶すんなよ」「俺も窓から見てた。今度月見酒でもしようぜ」と、ポンと肩を叩いてくる、ただそれだけ。それだけだったが、それで良かった。ミクリオにはミクリオのやり方があって、今に至るまで一人で積み上げてきたものがある。それをザビーダは汲んでくれているのだ。
吸血鬼になって便利なのは、とミクリオはできるだけ足音を立てないよう石畳の上を歩きながら思った。
五感が鋭くなったせいで、多少離れていても異変にすぐ気づけるようになったことだ。まだザビーダのように上手く感覚をコントロールすることはできない。光が眩しすぎることもあれば、隣の花屋の夫婦喧嘩まで聞こえてげんなりすることもある。
だが、鋭すぎる耳に感謝することも少なくない。たとえば今夜みたいに、誰かのかすかな悲鳴が聞こえた時なんかは。
ミクリオは一気に緊張して、足を止めた。街の外れだ。続いて争うような音。
慌てて通りを抜け、いくつかの道を折れ曲がる。その間にも背筋が凍るような叫び声はますます太く大きくなる。
通りの端、雑木林を抜けた先に黒々とした大きな影が見えた。二人だ。巨大な蝙蝠が気弱そうな男に食らいつこうとしている。
吸血鬼!
すぐさま服の中からナイフを引き抜いた。怖気をふるうような人間大の蝙蝠が、目玉をぎょろりと覗かせながら何か訳の分からないことをぶつぶつ呟いている。
錯乱してる?
ほんの小さな違和感が頭をよぎったが、何より男を助けることが先決だ。
今や同族だという気負いはミクリオには特にない。確かに体は変わったが、自分のやるべきことは何も変わっていない。人間だろうが吸血鬼だろうが、望みは今も昔も同じだ。
襲われている男の方は見慣れない顔だった。街にやって来たばかりの旅人なのかもしれない。どちらにせよ、この街にいる人間に害をなすというなら許さない。
「早く逃げるんだ! こいつは僕が引きつける!」
「……あ、ああ!」
男は少し躊躇ったようだったが、二、三歩後ろによろめくと脇目もふらずに雑木林の中を駆けていく。
吸血鬼は唸りながらぐるりとミクリオの方に顔を向けると、ぐにゃりと大男の姿に変化した。血の滴るような色の目をかっと見開き、異様な興奮で頰の筋肉をひくつかせている。大男はミクリオと目が合った瞬間、猛スピードで飛びかかってきた。
普通の人間なら腰を抜かしてもおかしくないその恐ろしい速さに、ミクリオは全く怯まなかった。
わずかに体を捻ると、躱す寸前吸血鬼の首を真一文字に切り裂く。以前ザビーダと対峙した時には軽くあしらわれてしまったが、もうあの時のようにはいかない。
吸血鬼の倒し方で一番知られているのは首を切り落とし、再生する前に心臓を杭で貫くことだ。
ミクリオがザビーダと会った時真っ先に首を狙ったのはそのせいで、先に首を切るのは噛まれないようにするための先人の知恵といえる。吸血鬼は不死の生物だから、殺すというより「二度と再生できないようにする」という方が表現としては正しい。
首から派手に血飛沫を上げながら、吸血鬼がガクリと片膝をついた隙を狙って、杭がわりのナイフで心臓を貫いた。抜けないように捻った瞬間鮮血が噴き出し、男が耳に延々残りそうな金切り声を上げる。
死に物狂いで暴れる吸血鬼の拳が腕にあたり、うっかり弾き飛ばされた。
まだ仕留められていない。深さが足りなかったのか。吸血鬼がもんどり打つように大通りへ飛び込んでいく。
「待て!」
市街地へ行かせる訳にはいかない。すぐに追い縋ろうとしたが、そう甘くはなかった。
吸血鬼は残る力を振り絞っているのか、あちこち躓きながら風を切るように通りを駆け抜けると、ちょうどそこをゆったり歩いていた黒猫に噛みつこうとした。
何でもいいから血を吸って、体力を回復させようという腹か。
吸血鬼が猫を喰らう寸前、咄嗟に滑り込むように猫を抱え上げて庇った。かわりに腕を深く噛まれて激痛が走る。けたたましく笑い声を上げた吸血鬼に物凄い腕力で肩を地面に押しつけられ、シャツの襟を引き裂かれた。
嚙まれる。
首筋に狙いを定めた吸血鬼が真っ赤な口を開けた瞬間、大男の腹を蹴飛ばし、渾身の力でナイフの柄を押し込んだ。微かに吸血鬼が痙攣し、牙をのぞかせたままゴトリと石畳の上に倒れ込む。
あとは、動くものは何もない。ミクリオの荒い息遣いだけ。
たっぷり5分、ミクリオは座ったまま呼吸を整えていた。
自分は噛まれてももう吸血鬼と化す心配はないが、取り逃がせば住民の誰かが犠牲になったかもしれない。吸血鬼に襲われていた男も無事に逃げられただろうか。誰も傷付けられなかったならそれで十分だ。
柔らかい尾が頰に触れた。そういえば猫を抱いてたんだっけ。
抱きつぶしてしまったのではないかと恐る恐る腕を開いてみたが、猫は不機嫌そうに鳴いただけで傷ひとつなかった。良かった。
だが、ミクリオは同じ姿勢のまま、急に途方にくれた。この猫と吸血鬼をどうしよう?
吸血鬼の方は教会の棺に納めさせてもらって墓地の奥深くに埋めるとしても、問題は猫だ。
見たところ、毛並みもいいしどこかの家の飼い猫のように見える。かといってこのまま放すとまた危ない目に遭うかもしれない。一旦我が家に引き取って、夜が明けてから飼い主を探すのが賢明だろう。
「うちに来るかい? ちょっと狭いかもしれないけど、朝までだから我慢してくれ。美味しいものを食べさせてあげるよ」
黒猫を抱き上げると、よく晴れた日の湖のような青みがかった目でミクリオを見上げ「にゃあん」と鳴いた。まるで人間の言葉が分かるみたいだ。
家に戻ると、幸いザビーダはまだ起きていた。
「ただいま」
「おかえり。今日は早かったな」
血と泥で髪も顔もぐちゃぐちゃな上に、ところどころ服を引き裂かれて悲惨な出で立ちになっているミクリオを見ると、ザビーダはゆっくり体を起こした。
「……派手にやり合ったみてえだな。怪我は?」
いかにもめんどくさそうな口調とは裏腹に、目つきは鋭い。
「少し服が破れただけだ。もう治ってるし、大丈夫だよ」
ザビーダはおもむろにミクリオの左腕をとると、「お前の血のにおいがするな」と吸血鬼に噛まれたところをいきなり舐めた。
「……っ…!」
「傷は治ってるだろうが、痛みがねえこたねえだろ。平気な顔すんな」
右腕で抱えていた黒猫がザビーダを見上げ、「みゃあ」と不機嫌極まりない声で鳴いた。
いけない。危うく忘れるところだった。
「そうだ。この猫、朝まで預かっておいてもいいかい?」
「猫? ……あ」
「『あ』って何だ。知ってるのか?」
「よう、久しぶりじゃねえか。エドナちゃん」
『今頃気づいたの。人前でイチャイチャするんじゃないわよ変態。露出狂。色ボケ男』
いきなり黒猫が口をきいた。
「うわ!? ね、猫が喋った!」
『猫が喋っちゃ悪い? ボーヤ』
猫は小馬鹿にしたような口調のままストンと床に飛び降りると、ぶわりと吹き荒れる風とともに、たちまち黒いワンピースを身に纏った可憐な少女になった。
手元でくるくると傘を弄んでいるその姿は、ふてぶてしいことこの上ない。
「やっと見つけたわよ。このワタシに手間をかけさせるとはいい度胸ね」
「よく俺のいるところが分かったな」
「魔女の情報網を甘く見ないで頂戴。あなた、ちょっとした噂になってるわよ。可愛い顔した若い吸血鬼と同棲中で子どもも11人いるって」
「尾ひれつきまくってんじゃねーか!」
「嘘よ」
エドナは真顔だ。
「嘘かよ」
「ちょっと本当よ」
「え、どの辺が? どの辺が本当?」
「ザビーダ……。ええと、彼女は?」
このまま放っておくといつまで経っても漫才の餌食になりそうだ。ミクリオがそっと服の裾を引っ張ると、ザビーダは「ああ」と答えた。
「魔女のエドナさ。まあ古くからの知り合いってとこだな。魔女っていうより小悪魔の方が合ってるが」
エドナが無言でザビーダの足を思いっきり踏みつけた。
「いでっ!!」
「ミクリオだ。よろしく」
「エドナよ。よろしく、ミクリオボーヤ」
「ボーヤって……君の方が年下だろ」
エドナがふんと鼻を鳴らした。
「ワタシの方があなたよりずっと大人よ。まあ守りたくなるNo.1の可憐な淑女だから、そう思うのも無理ないけど」
「お前さん、魔女と会うのは初めてか? 魔女は魔法や秘薬で自分の外見を操作できんだよ。見かけと実年齢は全然別もんなの」
「じゃあ、本当はいくつなんだ?」
言うや否や、傘の石突きが吸血鬼に掴まれていない方の肩めがけて飛んできた。
「いたっ!」
「この子、躾がなってないんじゃない? 乙女に年齢を聞くなんてマナー違反よ。ダメなミクリオボーヤ、略してダミボ」
「何でわざわざ略すんだ!」
「気に入らないっていうの? ワガママね。じゃあ駄々をこねるミクリオボーヤ、略してダミボ」
「一緒じゃないか!」
エドナは表情にこそ出さないが、いちいち反応するミクリオを前に、それはそれは楽しそうだ。
「……エドナちゃんに気に入られたようで何より」
「これ、気に入られたって言うのか!?」
「あら、いい茶葉があるじゃない」
「話を変えるな!」
「ピーピー喚いてないでお茶の用意でもなさい。さっき『美味しいものを食べさせてあげる』って言ったのはあなたでしょ」
「それは猫に言ったんであって……!」
「約束を破るのね。男らしくないわ」
ミクリオはぐっと詰まると、やがて観念したように首を振った。
「……じゃあ、準備ができたら呼ぶから、下に降りてきてくれ。さすがに寝室でお茶はしづらい。ついでに体を洗って着替えてくるよ」
「あら、心配しなくても『この部屋で毎晩毎晩ベタベタベタベタベタベタベタベタしてるのね』なんて思ってないから大丈夫よ」
「違っ……そういう意味で言ったんじゃない!!」
真っ赤になったミクリオがバタンとドアを閉めると、エドナはまるで勝手知ったる家のようにずかずかソファに近づき、家主が席を勧める前にちょこんと腰掛けた。
「守りたくなるNo.1の可憐な淑女のエドナちゃんよ」
「何よ。ベタベタした話は聞きたくないわよ」
「わざとあいつを部屋から出したな」
エドナは何も答えなかったが、軽く眉を跳ね上げた。
お見通しってわけ。ヘラヘラふざけてる癖に相変わらず油断も隙もないわね、この狸。
「二人っきりで話したいことがあるってか〜? 愛の告白ならいつでも聞くぜぇエドナちゃん」
「バカじゃないの? いえバカね。残念だけど悪い知らせよ」
「じゃ、おやすみ」
くるりと背中を向けたザビーダの前に、突如床をぶち抜いて巨大な岩壁が出現した。そのせいでしたたかに顔をぶつけたザビーダが思わず呻きながらうずくまる。
階下の店の方から何かの割れる音がした。おおかた物音に驚いたミクリオが食器でも落としたんだろう。
案の定、バタバタと階段を上がってくる気配がする。
「今、凄い音がしたけど何かあったのか!?」
「「別に」」
着替えている途中だったらしいミクリオは、上下ちぐはぐな格好のまま室内にぐるりと視線を巡らせると、二人にはもちろん、床にも家具にも天井にも傷ひとつないことを確かめてから首を傾げた。
ミクリオが首を捻りながら階段を下り、店の厨房に入っていったのを足音でしっかり確認すると、ザビーダはギギギッと首をエドナの方に向けた。
「……魔法じゃなくて口で引き止めようって考えはねーの?」
「あなたが勝手に話を終わらせようとするからでしょ。何寝ようとしてるのよ」
「良い大人はもう寝る時間なんだよ。夜更かししちゃいけねえの!」
「あんな赤ちゃんみたいなボーヤに手を出しておいて、良い大人だなんて笑わせてくれるじゃない。恥を知りなさいこのショタコン」
「ショタコ……」
「お兄ちゃんからの伝言よ。あの男が釈放されたわ」
どうあがいてもエドナが放っておいてくれそうにないので、ザビーダは諦めて「へー」と気のない返事をしながら小さな椅子を引き寄せ、エドナの向かい側に座った。
ミクリオに聞こえないよう細心の注意を払って声を落としたエドナに合わせて身を乗り出す様は、傍から見るとまるで悪代官と悪徳商人の密談だ。
「どの男だ? セクシー美女ならともかく野郎は積極的に忘れることにしてんだけどなぁ」
「しらばっくれないで。見当くらいついてるでしょ? アイツよ、ほら、15年くらい前にあなたが叩きのめした吸血鬼専門の狩人」
魔物を倒す狩人の中には、ミクリオのようにひとつの街に常駐して悪さをする連中を駆逐する奴もいれば、特定の種族に特化して行く先々の街で討伐の依頼を受ける、いわゆる「流し」もいる。
15年前にザビーダが相手にしたのは後者で、異様にしつこかったことを覚えている。人間だが催眠術に長けており、吸血鬼と見れば片っ端からとっ捕まえては散々いたぶってから殺す、悪名高い男。美学もなければ信念もなく、痛めつけることそのものに悦びを覚える、ザビーダと一番相容れないタイプだ。
吸血鬼に悩まされる街の人間にとっちゃ救世主だろうが、正体を隠してひっそり生きているザビーダからしてみれば迷惑千万な、ただの危ないサディストに過ぎない。
確かあの時、奴は正規の依頼を受けてからではなく「趣味の一環」としてザビーダを狙ってきた。それを適当に追い払っているうちにむきになった男の行動はどんどんどんどんエスカレートし、そのことが結果的に男自身の首を絞めた。ザビーダは今と同じように人間社会に紛れ込んで暮らしていたため、その狩人は無実の町人を殺そうとした咎で牢屋にぶち込まれたのだ。
それ以来とんと忘れていたのだが。
「へーえ。15年もいたのか。さぞ収監中の態度が悪かったんだろうな」
「顔は知らないけど、あいつの残虐さは魔女の間でも有名よ。……あなたを捜してるわ」
「へえー」
エドナが指先で苛々とソファを叩いた。
「……さっきからへえへえって、ワタシの話聞いてるの?」
「聞いてる聞いてる。俺様人気者だなぁ」
「そうやってのらりくらりする癖、300年前からなーんにも変わってないわね。あなたが中途半端に放っておくから、ワタシがこんなところまでわざわざ来なきゃいけなくなったのよ」
「それだ」
「どれよ」
「だいたい何でアイゼンの野郎、妹のお前をよこすんだ? あいつが自分の足で来りゃいいだけの話だろ」
「お兄ちゃんなら今頃どこかの海の上よ。本当に困ったものだわ、魔術の研究もしないで勝手にフラフラフラフラ……。まあ便りのひとつもよこさないどこかの誰かさんより1000倍マシだけど」
「それでエドナちゃん直々に野を越え山を越え会いに来てくれたって訳かい? 愛を感じるぜ。感謝の印に俺様の熱ーいハグを」
「熱ーい紅茶をあのボーヤに淹れさせるから結構よ。それで?」
それでどうする、と聞かれても来たら来たでまた返り討ちにするという、それだけだ。降りかかる火の粉はその都度払う。そうやって今まで生きてきたし、そもそも今どこにいるかも分からない相手をどうにかしようにも術がない。
ただ、ひとつ気がかりなのは。
「ボーヤはどうするの」
エドナがザビーダの思考を読んだかのように、傘の先でトンと床を叩いた。
「あなたと一緒にいたら巻き込まれるかもしれないのよ。こんな話を聞かせて、あの子を怖がらせたくはないでしょ」
「それで怯えて、夜通し布団被って震えるような可愛げがあいつにあればな」
ミクリオのことだ、黙って引っ込んでいるとは思えない。甘っちょろくて騙されやすくて危なっかしい癖に何かあっちゃあ首を突っ込みたがるお人好しだ。
ミクリオの腕は高く買っているし、もちろん信頼もしている。
でもそれとこれとは話が別だ。自分の蒔いた種を刈り取る作業にミクリオを付き合わせる訳にはいかない。自分のことであいつを危険に晒すなんてまっぴらだ。つまり、これは感情の問題だ。
このことを知ったら、後々「スレイが帰ってきた時には自分を巻き込めといった癖に、フェアじゃない」と怒るだろうか。
どうせ俺は嘘つきさ。お前はそういう男と一緒にいるんだ。
それをお前自身が選んだんだ。
控えめにドアがノックされ、今度はきちんと身なりを整えたミクリオが顔を出した。
「お待たせ。お茶の準備ができたけど、まだ話し中かい? なんの話をしてたんだ」
「ただの恋愛相談さ」
「『下僕に気持ち良く貢がせる100の方法について』よ」
「……君達、本当になんの話をしてたんだ……」
「80点」
エドナが空になった皿の横にフォークを置くと、口元をナプキンで上品に拭った。
「まあまあってところね。誉めてあげるわミボ。次」
暑くもなく寒くもない、どっちつかずの昼下がり。普段なら次から次へとやってくる客の対応で猫の手も借りたい忙しさなのだが、今日は珍しく客足が伸びず、店内は半分ほどしか埋まっていない。
それをいいことに、エドナはミクリオの向かいのカウンターに陣取って足をぶらぶらさせながら、片っ端からメニューを注文してはいちいち点数をつけている。
「どうしてそう偉そうなんだ……。だいたいもう10品目だぞ? お腹壊すんじゃないのか」
「つーぎー」
「…はいはい……」
エドナに催促されて、ミクリオは再びカウンターに背を向け、調理を再開した。
ちなみにザビーダは奥のテーブルで常連の応対中だ。本来エドナはザビーダの客なんだからザビーダが相手をすればいいようなものだが、エドナがわざわざミクリオを指名したせいでこれ幸いと飛んで逃げてしまった。「女の子と話す練習にもなるんじゃねーの?」という台詞を残して。全くもって余計なお世話だ。
「……まあ、見た目は女の子かもしれないけど……」
「何か言った?」
「何でもないよ。そういえば、エドナはザビーダとどういう関係なんだ?」
「あら、気になるの? プディングの4種フルーツのせを捧げながら『至らない僕にエドナお嬢様のお慈悲をください』って頭を下げるなら、教えてあげないこともないわ」
「誰がやるか!」
突っ込みがてら出来上がったばかりのデザートをトンとカウンターに置いた。ブドウのミルフィーユにバニラソフトクリームを添え、フルーツソースをかけたものだ。
エドナはしげしげとそれを眺めると、いかにも厳粛な面持ちで口に運び、「あら」と声を漏らした。
「……悪くないわね、これ。95点つけてあげるわ」
「本当に? 良かった、それは自信作なんだ。何度か試作をしてみて、この間ようやく満足のいく出来になったんだよ。ザビーダにミルフィーユの作り方を教わってね。それでザビーダが」
エドナの意味ありげな視線にようやく気づいて、ミクリオは首を傾げた。
「……なんなんだ? 変な目をして」
「別に、何でもないわ。ザビーダザビーダって、口を開けばそればっかりね? と思っただけよ」
「何でもあるじゃないか。……そんなにザビーダの話はしてないと思うけど」
「自覚症状のないところがダメね。手の施しようがないわ。末期よ末期」
人を病気みたいに言うな。
「末期のミボが可哀想だから教えてあげる。ワタシのお兄ちゃんがあいつと知り合いなのよ」
「知り合い?」
「そうよ。昔はよくつるんでバカ騒ぎしてたわね。度胸試しとか言って、わざわざ竜の巣に入っていったりね」
それは悪友というんじゃないだろうか。
「今はあいつもお兄ちゃんも世界中フラフラしてるから、そう頻繁に会ってるわけじゃないと思うけど。きっと気が合うんでしょうね、二人ともバカだから。人間バカ」
ミクリオが文献で知る限り、魔女や魔術師は吸血鬼や人狼よりはるかに人間に近い。
彼ら彼女らの役割は、世界と自然を支配する理を紐解き、体系化して再構成することだ。魔術専門の科学者集団と言ってもいい。地水火風の魔法を操ったり、変身したり、怪しげな薬を開発したりするのはその研究成果の表れだ。
しかし、その力は下手に悪用されれば秩序のバランスを乱すことになる。したがって、魔女達は人里離れた山の奥深くに籠もったまま、滅多に下界へは下りてこない。魔女以外の種族と交流するなんてもっての他だ。
そう考えると、エドナの兄もザビーダに負けず劣らず我が道を行くタイプなのだろう。
エドナは紅茶にミルクを足し、スプーンでかき混ぜている。
「人間のそばにいたくてたまらないのよ。ワタシには理解できないけど」
「エドナは違うのか?」
エドナがかき混ぜていた手をぴたりと止め、わずかに拗ねたような顔をした。
「……嫌いよ、人間なんて。自分勝手だもの」
「そうじゃない人間もいるかもしれないじゃないか」
「そういう人間が多すぎるのよ」
エドナの言う事は何も間違っていない。ミクリオだって今まで散々痛い目に遭わされてきたし、汚い連中は山ほどいる。自警団の男達に嵌められた時のように、命の危険に晒されたことだって一度や二度ではない。
でも、スレイのような真っ直ぐな人間もいれば、ザビーダのような変わり者の吸血鬼だっている。喫茶店の常連達のように、偏見も何もなく接してくれる人々がいる。それをなかったことにはしたくない。
ミクリオが目を伏せたのを見て取って、エドナは残ったお茶を飲み干すと、急に席を立った。
「ミボ、街を案内なさい。せっかく来たんだから観光でもしたいわ」
「あ、ああ。……ザビーダ! ちょっとエドナに街を案内してくるよ」
客と談笑していたザビーダが顔を上げた。少し考える素振りをすると、軽く首を振る。
「いや、お前さんはここにいろ。エドナちゃん、案内なら俺がしてやるよ。それでいいだろ?」
「……まあ、いいわよ。ワタシは」
「どうして?」
ミクリオは首を傾げた。店主とただの従業員だったら、責任を取れる立場の人間が残った方がいいだろう。それに、自分の方が断然この街に詳しい。
「オヤジ連中がお前の接客の方がいーってさっきからうるせえんだよ」
ザビーダが顎で指し示した先では、先程までザビーダと話し込んでいた酒屋の主人と鍛冶職人の男がこっちに向かってぶんぶん手を振っている。
「ようミクリオ! やっぱり綺麗どころの顔見た方が倍うめえわ」
「こっちでオジさん達と腕相撲でもしようぜ〜」
「お・触・り・禁・止だっつってんだろうがさっきから。昼間っから酔っ払ってんじゃねえよ。捨てろ煩悩を」
「けっ、いいじゃねえかケチ。減るもんでもなし。でけえ図体してケツの穴の小せえ野郎だぜ全く」
「そうだそうだ。この店に癒しと潤いを求めて来てんだぞ俺達は。あ〜癒されてえわ〜毎日かみさんに虐げられて傷ついた心を癒されてえわ〜」
「そんなに癒されてえなら医者にでも行けよ!」
年甲斐もなく低レベルな口喧嘩を繰り広げるいい大人三人を前に、ミクリオはしばらく唖然としていたが、やがてちょっと笑った。
「やっぱり、僕が行ってくるよ。僕の生まれた街なんだから。そんなに時間はかからないと思う」
ミクリオにとって、スレイと自分を育んでくれたこの街と人は自慢であり、誇りだ。その場所にザビーダが馴染んでいることが、何となく嬉しい。
「どうするの?」
エドナはミクリオでなく、ザビーダに向かって真っ直ぐ尋ねた。ザビーダが「敵前逃亡かコラ」とぎゃんぎゃん吠えまくる中年二人をトレーで遮っておいてから、「……ああ」とこちらを向く。
「知らない大人に声掛けられてもついてくなよ」
「子どもじゃないんだぞ」
ザビーダといいエドナといい、どうしてこう子ども扱いするんだろう。それは何百年も生きているであろう二人に比べれば、自分なんか生まれたてほやほやのひよっ子に過ぎないかもしれないが。
「もしそういう奴に会うことがあったら、絶対に目を見るな」
「……どういう意味だ?」
「目と目が合った瞬間から恋が始まっちまうかもしれねえだろ?」
ザビーダはそれ以上何も言わなかった。口調も別段いつもと変わらなかったが、ミクリオはなんとなく腑に落ちないまま、さっさと歩き出したエドナについて店を出た。
……何だろう。この、ボタンをかけ違えた時のような違和感。
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